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Event / できごと

宋の科挙と士大夫

The Song examination society
AD1000年頃
重要度 4
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民古シベリアの狩猟採集民アイヌキメク=キプチャク可汗国海南西夏チベット南詔チャールキヤ朝ブワイフ朝ガズナ朝カリンガラージプートの諸王国オリッサSenasパーラ朝プラティーハーラ朝チャーハマーナ朝Haripunjayaドヴァーラヴァティーパガン朝南詔と大理チャンパ高麗遼(契丹)チョーラ朝大越日本クメール帝国AD1000年頃長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1000年頃の版図を描いています(30勢力)

概要

唐の科挙の合格者は年に数十人で、貴族の家の子が多かった。宋は合格者を年数百人に増やし、皇帝自身が最終試験(殿試)を行った。合格者は皇帝の門下生になる。武人の力を削ぎ、文人の官僚が国を運営する体制ができた。受験のための出版が栄え、印刷術が広まった。「万般皆下品、惟有読書高」。同時に、受験は一族の投資になった。一人を合格させるために、村や一族が学費を出し、合格すれば免税と地位が一族に及んだ。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

本文

**唐と宋の違い**。

唐にも科挙はあった。しかし、唐の社会を動かしていたのは、依然として**門閥貴族**である。

『新唐書』の宰相の一覧を見ると、その大半が、限られた数の名門(清河崔氏、范陽盧氏、太原王氏、滎陽鄭氏、趙郡李氏——「五姓七望」)の出身である。

唐の科挙の合格者も、多くはこれらの家の子だった。

**転換**。

唐末の混乱(875年の黄巣の乱、そして五代十国)で、この貴族層が、**物理的に消滅した**。

(黄巣が長安を占領したとき、旧来の貴族が大量に殺された。族譜が失われ、荘園が破壊された。歴史家は、これを「中国の貴族制の終わり」と見る。)

宋が統一したとき、支配層の空白があった。

そこを、科挙が埋めた。

**宋の改革**。

**(1)合格者の増加**。

- 唐:年平均、進士 **20〜30人** - 宋:年平均、諸科を含めて **200〜300人**(多い年は500人を超えた)

(宋の300年で、進士の合格者は約4万人。唐の300年では約6千人。)

**(2)殿試**(973年〜)。

宋の太祖が始めた。**皇帝が、自ら最終試験を行う**。

きっかけは、973年の科挙で、落第した受験者が「試験官が縁故で選んだ」と訴え出たことである。太祖は、落第者を集めて自ら試験し直し、そして以後、これを制度にした。

意味——合格者は「**天子門生**」(皇帝の門下生)になる。

試験官との師弟関係が、断ち切られた。

**(3)匿名化**。

- **糊名**(992年)——答案の氏名の欄を封じる。 - **謄録**(1015年)——書記が答案を全部書き写し、写しを採点する。筆跡が分からない。

これで、少なくとも制度の建前としては、**答案の中身だけで評価される**ことになった。

(それでも、抜け道はあった。答案の中に、あらかじめ決めた特定の語を入れて合図する、という手口が記録されている。)

**(4)身分の開放**。

商人の子も、農民の子も、受験できる。

(例外はあった。賤民、罪人の子孫、そして——**商人の子は、時期によって制限された**。また、父母の喪中は受験できない。)

**社会**。

**士大夫**という階層が生まれた。

彼らは、貴族ではない。血統ではなく、**教養と、試験の合格によって**、その地位を得た。

そして、彼らは同時に——**地主**である。

(受験には、何年も、あるいは何十年も、働かずに勉強する経済的な余裕が要る。だから、実際に合格できるのは、一定以上の土地を持つ家の子に限られた。「開かれている」という建前と、実態の間に、常に距離があった。)

**一族の投資**。

**一人を合格させることは、一族全体の事業だった**。

- 一族が金を出し合って、優秀な子を勉強させる。 - 族田(一族の共有地)の収益を、学費に充てる。 - 合格すれば、**免税と、法的な特権**(役人の親族は、刑罰が軽減される)が、一族に及ぶ。 - 官職に就けば、その人脈が一族の商売に働く。

つまり、**受験は、極めて収益率の高い投資**だった。当たれば。

(清代の推計で、生員の資格を得るまでにかかる費用が、農家の年収の数十年分に相当する、というものがある。)

**出版**。

受験者が増えると、**本が売れる**。

- 経書と、その注釈 - 過去の合格答案集(「程文」) - 参考書、要点集、暗記のための韻文

宋代、**印刷術**(木版)が爆発的に広まった。

(印刷術そのものは唐代からあったが、需要を作ったのは科挙である。福建の建陽が出版の中心になり、安価な本が大量に作られた。)

**朱子学**。

**朱熹**(1130〜1200)が、経書の解釈を体系化した。

彼の注釈——特に『**四書集注**』(論語、孟子、大学、中庸)——が、1313年(元)以降、**科挙の公式の教科書**になった。

以後、600年、東アジアの知識人は、この一つの解釈で経書を読んだ。

(明代、答案の形式が**八股文**として固定された。破題、承題、起講、入手、起股、中股、後股、束股。決まった構成、決まった対句、決まった字数。内容より形式が評価された。清末の改革者たちが、これを最大の弊害として攻撃した。)

**文化**。

科挙の社会は、独特の文化を生んだ。

- **書**。答案の字が美しくなければならない(謄録の制度がある時期でも、殿試は皇帝が原本を見る)。 - **詩**。唐宋の詩人の多くが、官僚である。杜甫、白居易、蘇軾、王安石。 - **絵画**。文人画。官僚が、余暇に描く。職業画家の技巧を、むしろ低く見た。 - **旅**。任地への赴任と、左遷。中国の詩の主要な主題の一つが、**別離**である。

**蘇軾(蘇東坡)**。1057年の科挙に、弟の蘇轍とともに合格した。試験官は欧陽脩。

(欧陽脩は、その答案を読んで、あまりに優れているので、自分の弟子の曾鞏のものだと思い、贔屓を疑われることを避けて、第2位にした、という話が伝わっている。)

蘇軾は、後に王安石の新法に反対して、何度も左遷された。海南島まで流された。そこで詩を書き、料理を作り(東坡肉)、そして書を残した。

**限界**。

科挙が選んだのは、**経書を暗記し、決まった形式で文章を書ける人**である。

- 数学、天文、医学、農学、工学は、科目から外れていた(唐代には明算科があったが、地位が低く、廃れた)。 - 実務の能力は、試験では測れない。 - そして、**あまりに多くの才能が、この一つの試験に吸い込まれた**。

(ジョセフ・ニーダムの問い——なぜ中国で近代科学が生まれなかったか——への答えの一つとして、科挙がしばしば挙げられる。最も優秀な人材が、全員、同じ試験を目指した。ただし、この説明は単純すぎるという批判も強い。)

**それでも**。

12世紀の中国で、**筆跡を隠して答案を採点する**制度が動いていた、という事実は、いま見ても異様である。

ヨーロッパで、公務員の登用に公開競争試験が導入されるのは、**700年後**である。

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