宋の科挙と士大夫
概要
唐の科挙の合格者は年に数十人で、貴族の家の子が多かった。宋は合格者を年数百人に増やし、皇帝自身が最終試験(殿試)を行った。合格者は皇帝の門下生になる。武人の力を削ぎ、文人の官僚が国を運営する体制ができた。受験のための出版が栄え、印刷術が広まった。「万般皆下品、惟有読書高」。同時に、受験は一族の投資になった。一人を合格させるために、村や一族が学費を出し、合格すれば免税と地位が一族に及んだ。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
本文
唐にも科挙はあった。しかし唐の社会を動かしていたのは、なお門閥の貴族である。唐の宰相の顔ぶれを見ると、その多くが清河の崔氏、范陽の盧氏、太原の王氏といった、「五姓七家」などと呼ばれた限られた名家の出身だった。科挙の進士の合格者は年に数十人ほどにすぎず、その多くもこうした家の子だった。試験はあっても、試験だけで身を立てられる社会ではなかった。
それを変えたのは、皮肉にも戦乱である。唐の末、875年に始まった黄巣の乱で、黄巣の軍は長安を占領し、旧来の貴族を多数殺した。系図が失われ、荘園が荒らされ、続く五代十国の半世紀で、貴族という層はほとんど姿を消した。歴史家はここに中国の貴族制の終わりを見る。960年に宋が開封を都として建てられたとき(宋の成立)、国を治める層には大きな空白があった。そこを科挙が埋めたのである。

宋の科挙は、唐とは規模が違った。合格者は大きく増え、多い年には数百人が一度に及第した。宋の約300年で進士に合格した者は4万人前後と推計され、唐の約300年のそれ(数千人)の何倍にもなる。宋の太祖趙匡胤(宋の太祖)は、軍人が政権を奪う五代の悪循環を断つため、武人の力を削ぎ、文人の官僚に国を任せる道を選んだ。科挙はその人材を供給する装置になった。
973年、太祖は皇帝みずから最後の試験を行う殿試を始めた。きっかけは、その年の科挙で落ちた受験者が、試験官が縁故で合格者を選んだと訴え出たことだった。太祖は落第者を集めて自分で試験をし直し、以後これを制度にした。殿試を経た合格者は皇帝の門下生(天子門生)とされ、試験官との師弟関係は断ち切られた。官僚が派閥を作るより、皇帝につながる仕組みである。

答案を公平に読む工夫も重ねられた。10世紀末には答案の氏名の欄を糊で封じる糊名が始まり、11世紀初めには、書記が答案をすべて書き写し、その写しを採点する謄録の仕組みができた。採点者には受験者の名前も筆跡も分からない。それでも抜け道はあり、答案のどこかに前もって決めた語を入れて合図する手口が記録に残っている。受験の資格も広く開かれ、建前のうえでは農民の子も受けられた。ただし、罪人の子孫などには制限があり、商人の子も時期によっては受験を制限された。
こうして生まれたのが士大夫という階層である。彼らは血筋ではなく、教養と試験の合格によって地位を得た。同時に、彼らの多くは地主でもあった。合格するには、何年も、ときには何十年も、働かずに勉強し続ける余裕が要る。実際に合格できたのは、一定以上の土地を持つ家の子にほぼ限られた。門は開かれているという建前と、実際に門をくぐれる人の間には、いつも距離があった。

受験は一族の事業になった。一族が金を出し合い、見込みのある子を勉強させる。一族の共有地の収入を学費に充てる。一人が合格すれば、税の軽減や法のうえでの特権が家に及び、官職に就けばその人脈が一族の商売を助ける。当たれば見返りの大きい投資だった。「万般みな下品、ただ読書のみ高し」(あらゆる仕事は卑しく、学問だけが尊い)という句が、宋代の子ども向けの詩として広まった。
受験者が増えれば、本が売れる。経書とその注釈、過去の合格答案を集めた本、要点をまとめた参考書が、木版で大量に刷られた。印刷の技術そのものは唐代からあったが、それを社会の隅々まで広げる需要を作ったのは科挙だった(宋の活字と羅針盤)。福建の建陽は安価な本の産地として知られた。

試験で何を読ませるかも、やがて固まっていく。南宋の朱熹(朱子)は経書の読み方を体系づけ(朱子学の成立)、彼の『論語』『孟子』『大学』『中庸』の注釈は、元の時代、1313年の決定で科挙の公式の解釈とされた。以後600年近く、東アジアの知識人の多くは、この一つの解釈を通して経書を読むことになる。明代には答案の形式が八股文として固定され、決まった構成と対句を守ることが重んじられた。清末の改革者たちはこれを最大の弊害として攻撃し、科挙は1905年に廃止される。
科挙の社会は独特の文化も生んだ。官僚の多くが詩人であり、書家であり、余暇に絵を描いた。職業画家の技巧より、教養ある素人の筆を上に見る文人画の考え方がここから育った。任地への赴任と左遷が繰り返されたので、別離は詩の大きな主題になった。蘇軾(蘇東坡)は1057年、弟の蘇轍とともに進士に合格した。試験を取り仕切った欧陽脩は蘇軾の答案のあまりの出来に、自分の弟子の曾鞏のものだと思い込み、身びいきを疑われないよう2位にした、という話が伝わっている。蘇軾はのちに王安石の新法に反対して何度も左遷され、最後は海南島まで流された。豚の角煮「東坡肉」は、彼が黄州に流されていたころに工夫したものだと伝えられる。

試験場は宋代から専用の施設として整えられていき、のちの明清の時代には、受験者が寝具と食料と筆墨を抱えて入り、狭い個室に数日こもって答案を書く形が定着する。持ち込みを防ぐために身体検査が行われたが、肌着に細かな字で経書を書き込んだ品が現代まで残っているように、不正は後を絶たなかった。何度落ちても受け続け、白髪になってようやく合格する者もいれば、一生合格できずに終わる者も大勢いた。
限界もはっきりしていた。科挙が選んだのは、経書を覚え、決まった形式で文章を書ける人である。数学や天文、医学、農学は主な科目から外れ、実務の力も試験では測れなかった。ジョゼフ・ニーダムが投げかけた、なぜ中国で近代科学が生まれなかったのかという問いに対し、最も優秀な人材が一つの試験に吸い込まれたからだ、という答えがしばしば挙げられる。ただ、この説明は単純すぎるという批判も強い。

それでも、11世紀の中国で、名前と筆跡を隠して答案を採点する制度が動いていたことは、いま見ても驚くべきことである。この仕組みは高麗の科挙などを通じて周辺の国にも影響を与えた。ヨーロッパの国々が官吏の採用に公開の競争試験を取り入れるのは、19世紀になってからである。