← 地図で見る
Event / できごと

ケルン大聖堂の起工

Cologne Cathedral begun
AD1248年8月15日
重要度 4

概要

1164年、バルバロッサがミラノから東方三博士の聖遺物をケルンに持って来た。巡礼者。古い大聖堂が1248年に焼けて、大司教が、アミアンを手本に、フランスのゴシックで起工した。内陣は1322年に完成。1473年、金がなくなって、止まった。クレーンが南塔の上に400年立っていた。1842年、プロイセン王が再開して、1880年、完成。632年。高さ157メートル、当時、世界一。1945年の爆撃を、周りが更地になっても、立って耐えた。

場所

ケルン
50.94°N 6.96°E · ドイツ

本文

ケルン。ローマの植民市(AD50年)。8世紀から大司教座。ライン川の商業都市で、12世紀には神聖ローマ帝国で最大の街だった。

1164年。フリードリヒ・バルバロッサがミラノを潰して、ケルン大司教ライナルト・フォン・ダッセル(帝国の宰相)に、ミラノにあった「東方三博士」の聖遺物を与えた。ライナルトはライン川を船で運んだ。7月23日、ケルン。マギは最初の「王」たちで、キリストを最初に礼拝した異邦人で、皇帝と王の守護者。巡礼者が来た。1181〜1225年、ニコラウス・フォン・ヴェルダンが、金と宝石と七宝の「三王の聖遺物箱」を作った(中世の金細工で最大)。

古い大聖堂(870年に献堂)は、それを入れるには古かった。1248年4月30日、取り壊しの最中に火事。大司教コンラート・フォン・ホーホシュタデンが、新しい大聖堂を決めた。8月15日、聖母被昇天の日、礎石。

設計はマイスター・ゲルハルト。フランスのゴシック。アミアンの平面(5廊、周歩廊と7つの放射状の礼拝堂)と、ボーヴェの高さ。内陣の高さ43.5メートル。飛梁、尖頭アーチ、リブ・ヴォールト、大きな窓、細い柱。ドイツで最初の、純粋なフランスのゴシック。

1322年9月27日、内陣が献堂された。仮の壁で閉じて、そこで典礼をした。西へ、身廊と塔の工事。南塔は1450年頃に56メートルまで。1473年頃、止まった。金がなかった。南塔の上に、木のクレーンがそのまま立っていた。ケルンの街の絵に、400年、クレーンのある未完の塔が描かれた。「ケルンの大聖堂のようだ」は、終わらないものの喩えになった。

1794年、フランス革命軍が倉庫と馬小屋にした。1814年、ゲッレスが「ドイツの国民の記念碑として完成させよう」と書いた。1814年と1816年、中世の設計図(正面の図面、4メートル、1300年頃)が見つかった。ロマン派。ズルピツ・ボワスレーが運動を作った。プロイセン(1815年からラインラントを持った)の王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、ドイツの統一の象徴として(プロイセンはプロテスタント、ケルンはカトリック)。1842年9月4日、再開の礎石。市民の募金と宝くじ。中世の図面の通りに、ただし鉄の屋根組で。1880年10月15日、完成の祝典。皇帝ヴィルヘルム1世。632年。

2つの塔、157.38メートル。1880〜84年、世界で最も高い建物だった。

1942〜45年、ケルンは262回の空襲で、市の中心の9割が壊れた。大聖堂は14発の大型爆弾を受けて、立っていた(爆撃機の目印として残された、と言う人がいる。確かでない)。周りが平らになった中に、黒い大聖堂が立っている写真が残っている。1948年、700年祭で応急修理。修復は、それから終わっていない。「大聖堂建設小屋(ドームバウヒュッテ)」が、常にどこかを直している。「ケルンの大聖堂が完成する日に、世界が終わる」。

1996年、世界遺産。2004年、周りの高層ビルの計画で「危機遺産」に入れられ、2006年、計画が変わって外れた。2007年、ゲルハルト・リヒターのステンドグラス(1万1500の色の正方形を乱数で並べた。大司教マイスナーは「モスクのようだ」と嫌った)。

同じ時代のできごと

スノッリ『ヘイムスクリングラ』AD1230年頃『諸国地名辞典』AD1228年御成敗式目AD1232年(貞永元年)マリ帝国の成立AD1235年ラズィーヤの即位AD1236年高麗版大蔵経1236年バトゥの西征AD1237年モヒの戦いAD1241年4月11日