できごと

ケルン大聖堂の起工

Cologne Cathedral begun
AD1248年8月15日
重要度 4
モンゴル帝国フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族クマン(キプチャク)ベルベル諸部族アイユーブ朝ブワイフ朝ファーティマ朝神聖ローマ帝国サーミそのほかのルーシ諸公国ノルウェーヴォルガ・ブルガールムワッヒド朝ノヴゴロド公国ウラジーミル・スーズダリ公国ポーランド王国フランス王国スウェーデンブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国ガーリチ=ヴォルィーニ公国東ローマ帝国アルメニアケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesComté de Toulouseリトアニア大公国デンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドジョージアヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1248年8月15日ケルン
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概要

1164年、バルバロッサがミラノから東方三博士の聖遺物をケルンに持って来た。巡礼者。古い大聖堂が1248年に焼けて、大司教が、アミアンを手本に、フランスのゴシックで起工した。内陣は1322年に完成。1473年、金がなくなって、止まった。クレーンが南塔の上に400年立っていた。1842年、プロイセン王が再開して、1880年、完成。632年。高さ157メートル、当時、世界一。1945年の爆撃を、周りが更地になっても、立って耐えた。

場所

ケルン
50.94°N 6.96°E · ドイツ

本文

ケルンは、ローマ人が紀元50年ごろにライン川のほとりに築いた植民市に始まる。8世紀には大司教座が置かれ、ケルン大司教はのちに神聖ローマ皇帝を選ぶ選帝侯の一人になった。ライン川の水運で栄えた商業都市で、12世紀には帝国でも最大級の街だった。この街の大聖堂を、ヨーロッパ中から人が目指す場所に変えたのは、一つの聖遺物だった。

1164年、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は、反抗したミラノを前々年に攻め落として破壊していた。皇帝の側近でケルン大司教のライナルト・フォン・ダッセルは、その戦利品として、ミラノの教会にあった「東方三博士」の遺骨を与えられた。ライナルトはそれをアルプスを越え、ライン川を船で下ってケルンへ運び、7月にケルンに着いた。三博士は、生まれたばかりのキリストを最初に拝んだ異邦の王たちとされ、王や皇帝の守護者と見なされた。ドイツの王はアーヘンで戴冠すると、ケルンに詣でて三博士に祈るのが習いになり、巡礼者が押し寄せた。12世紀末から13世紀の初めにかけて、金細工師ニコラウス・フォン・ヴェルダンらが、金と宝石と七宝で飾った「三王の聖遺物箱」を作った。中世ヨーロッパで最も大きな金細工の聖遺物箱とされる。

平面図
平面図Wikimedia Commons Public domain

当時の大聖堂は、9世紀に献堂された古いもので、この宝を納める器としては見劣りがした。1248年4月30日、建て替えのために東の部分を取り壊していたさなかに火が出て、古い大聖堂は大きく焼けた。大司教コンラート・フォン・ホーホシュタデンは新しい大聖堂を建てることを決め、同じ年の8月15日、聖母被昇天の祝日に礎石を置いた。

設計を任されたのは、マイスター・ゲルハルトと呼ばれる建築家である。手本にしたのは、当時フランスで建ちつつあった最新の大聖堂だった。サン・ドニ修道院とゴシックの始まりに始まったゴシックの建築は、尖ったアーチと、肋骨のように組んだ天井と、外から壁を支える飛び梁によって、壁を薄く、窓を大きく、天井を高くすることを可能にしていた。ゲルハルトはアミアン大聖堂の平面、つまり五つの通路と、内陣を取り巻く周歩廊と放射状に並ぶ七つの礼拝堂を取り入れ、高さではボーヴェにならった。内陣の天井の高さは43メートルを超える。ドイツの地に建てられた、最初の本格的なフランス式のゴシック大聖堂だった。

ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風(京都市左京区、岡崎公園)
ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風(京都市左京区、岡崎公園)Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

工事は東から進んだ。1322年9月27日、内陣が完成して献堂された。西側は仮の壁でふさぎ、そこで典礼が行われた。続いて身廊と西の二つの塔の工事が進められたが、ペストと戦争と財政難のなかで歩みは遅くなった。南の塔は15世紀半ばに50メートルあまりの高さまで積み上がったところで、1473年ごろ、工事はほぼ止まった。理由は単純で、金が尽きたのである。巡礼の熱も宗教改革の時代には冷めていった。

南の塔の上には、石を吊り上げるための木のクレーンが、そのまま残された。その後およそ400年のあいだ、ケルンの街を描いた絵には、未完の塔とクレーンが描かれ続けた。クレーンは街の目印になり、ケルンの大聖堂は、いつまでも終わらないものの喩えになった。

ヒリヌス写本に描かれたオットー朝期の大聖堂の建築図
ヒリヌス写本に描かれたオットー朝期の大聖堂の建築図Wikimedia Commons Buchmaler, vermutlich Reichenau, 10. Jahrhundert · Public domain

1794年、フランス革命軍がケルンを占領すると、大聖堂は倉庫や馬小屋として使われた。風向きが変わったのは、ナポレオンの支配が終わる頃である。1814年、ジャーナリストのヨーゼフ・ゲレスは、大聖堂を完成させることをドイツ人の国民的な事業にしようと呼びかけた。中世の建築への憧れが、ロマン主義の時代の空気の中で、ドイツという国のまとまりを求める思いと結びついた。その頃、行方の分からなかった中世の正面の設計図が、1814年にダルムシュタットで、1816年にパリで見つかった。高さ4メートルを超える羊皮紙の図面で、1300年ごろに描かれたものとされる。収集家ズルピツ・ボワスレーらがこれを手に、完成の運動を広げた。

1815年からラインラントを治めることになったプロイセンの王家は、この事業に目を付けた。プロイセンはプロテスタントの国で、ケルンはカトリックの街である。新しく手に入れたカトリックの土地の人々の心をつかみ、同時にドイツの統一の旗印にする。1842年9月4日、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が工事再開の礎石を置いた。費用はプロイセン国家と、大聖堂建設協会が集めた市民の募金、そして宝くじでまかなわれた。工事は中世の図面に忠実に進められたが、屋根の骨組みには19世紀の新しい材料である鉄が使われた。

1820年頃のケルン大聖堂前の植物園
1820年頃のケルン大聖堂前の植物園Wikimedia Commons Theodor Verhas / Henry Winkles · Public domain

1880年10月15日、皇帝ヴィルヘルム1世を迎えて完成を祝う式典が開かれた。起工から632年後のことである。二つの塔の高さは157メートルあまり。完成から数年のあいだ、それは世界で最も高い建物だった。ただ、ドイツ帝国の成立を祝うこの式典は、プロイセン政府がカトリック教会と激しく対立していた文化闘争のさなかで、ケルンの大司教は国外に逃れていて出席できなかった。国民の記念碑としての大聖堂は、最初から複雑な意味を背負っていた。

第二次世界大戦で、ケルンは繰り返し空襲を受け、旧市街のほとんどが瓦礫になった。大聖堂も大型の爆弾を十数発受け、天井の一部が崩れ、窓は吹き飛んだが、建物は立ち続けた。連合軍の爆撃機が目印に使うためにわざと残したのだという話があるが、確かなことは分かっていない。焼け野原の中に黒い大聖堂だけがそびえる写真は、戦争の破壊を象徴する一枚として知られている。1948年、起工700年の祭りに合わせて応急の修理が行われ、典礼が再開された。

1855年のケルン大聖堂建設の様子
1855年のケルン大聖堂建設の様子Wikimedia Commons Johannes Franciscus Michiels · Public domain

修復は、いまも続いている。大聖堂には専属の建設工房があり、石工やガラス職人が、雨風や排気ガスで傷んだ石を一つずつ取り替えている。ケルンの人々は、大聖堂が完成した日に世界が終わる、と冗談めかして言う。1996年に世界遺産に登録されたが、2004年、対岸に高層ビルを建てる計画が景観を損なうとして「危機にさらされている世界遺産」に入れられ、計画が見直された2006年に外された。2007年には、南側の窓に画家ゲルハルト・リヒターのステンドグラスが入った。1万を超える色の小さな正方形を偶然に任せて並べた抽象の窓で、当時の大司教が、教会よりモスクに似合うと難色を示したことでも話題になった。

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