ミラノ勅令

概要
キリスト教を含むすべての信仰を認めた。300年続いた迫害が終わる。
場所
45.46°N 9.19°E · イタリア・ミラノ
関わった人(1)
コンスタンティヌス1世AD272年頃–337年5月22日 · 発布本文
ミラノ勅令は、名前のわりに勅令でもなく、ミラノで出されたものでもない、と言われる。紀元313年の初め、西の皇帝コンスタンティヌス1世と東の皇帝リキニウスが北イタリアのミラノで会い、宗教の扱いについて合意した。リキニウスはこのとき、コンスタンティヌスの異母妹コンスタンティアと結婚している。その合意を、リキニウスが同年6月に東方の都ニコメディアで総督あてに伝えた書簡が残っており、これが後に「ミラノ勅令」と呼ばれるようになった。19世紀末にドイツの歴史家ゼークが、この呼び名は実態に合わないと指摘して以来、研究者は「いわゆるミラノ勅令」と断って呼ぶことが多い。
文面は、キリスト教だけを特別に認めたものではない。キリスト教徒にも、ほかのすべての者にも、それぞれが望む宗教に従う自由を与える、と書いている。そのうえで、迫害の間に没収された教会の建物や土地を、代価を求めずにキリスト教徒の共同体へ返すよう命じた。返還で損をする買い手には国庫から補償するという、細かな配慮まで付いていた。書簡の文面は、キリスト教徒の著述家ラクタンティウスがラテン語で、教会史家エウセビオスがギリシア語訳で、それぞれ書き残している。ラクタンティウスは、のちにコンスタンティヌスの長男クリスプスの家庭教師を務めた人物で、宮廷に近い立場から書いた。
背景には、直前の10年の激しい迫害があった。303年、ディオクレティアヌスが始めたディオクレティアヌスの大迫害では、教会の破壊、聖書の焼却、聖職者の投獄、そして皇帝のための供犠の強制が、次々に命じられた。地域による差は大きく、西方では早くに緩んだが、東方では何年も続いた。

迫害をやめる流れは、ミラノより前に始まっていた。311年、迫害を最も熱心に進めた東の正帝ガレリウスが、重い病の床で寛容令を出し、キリスト教徒が集まって祈ることを認めたのである。迫害は彼らを古い神々に戻せなかった、と認める内容だった。ガレリウスは数日後に死んだ。
コンスタンティヌスの側にも転機があった。312年10月、ローマを押さえていたマクセンティウスとのミルウィウス橋の戦いに勝って、西方の単独の支配者になる。この戦いの前に、キリスト教の神のしるしを見たという話が伝わる。ラクタンティウスは、夢の中で兵士の盾に神のしるしを描くよう告げられたと書く。エウセビオスは後に、皇帝本人から聞いた話として、昼の空に光の十字と「これによって勝て」という言葉を見た、と記した。二人の記述は食い違っており、どこまでが事実で、どこからが後の脚色なのかは分からない。

改宗の動機についても議論が続いている。本心からの回心と見る研究者もいれば、帝国をまとめるための政治的な計算を見る研究者もいる。コンスタンティヌスは即位後も長く太陽神を貨幣に刻み続け、異教の大神官の称号も手放さなかった。洗礼を受けたのは死の床に就いてからである。ただ、当時は洗礼を最期まで延ばすことは珍しくなかった。
この時点で、帝国の人口に占めるキリスト教徒は1割前後だったと推計される。都市に多く、農村には少なかった。迫害を受けてもなくならず、組織と慈善の網を持った少数派を、皇帝が味方に引き入れたことになる。

公認されてすぐに、皇帝は教会の内輪の争いに引き込まれた。北アフリカでは、迫害のときに聖書を差し出した司教の叙任をめぐって教会が二つに割れていた。のちにドナトゥス派と呼ばれる人々である。双方がコンスタンティヌスに裁定を求め、皇帝は313年にローマで、翌314年にはガリアのアルルで司教たちの会議を開かせた。迫害する側だった皇帝が、教会の争いを裁く側に回った最初の例である。
合意はその後、皇帝どうしの争いに巻き込まれた。コンスタンティヌスとリキニウスの関係は悪化し、リキニウスは東方で再びキリスト教徒に圧力をかけたとされる。324年、コンスタンティヌスはリキニウスを破り、帝国の唯一の皇帝になった。翌325年には自ら司教たちを集めてニケーア公会議を開き、教義の争いに皇帝が裁定を下す前例を作った。

コンスタンティヌスはキリスト教に特権を与えていった。聖職者を公の負担から免除し、教会への寄進を認め、321年には日曜日を休みの日と定めた。母ヘレナは聖地を巡り、各地に聖堂が建てられた。337年、皇帝はコンスタンティヌスの洗礼と死で、洗礼を受けて世を去った。
揺り戻しもあった。361年に即位した甥のユリアヌスは、伝統の神々の祭祀を復興しようとした。ユリアヌスの異教復興である。だが治世は2年に満たず、試みは続かなかった。

ミラノでの合意から67年後の380年、テオドシウス1世らの勅令により、キリスト教は帝国の正統の信仰と定められる。キリスト教の国教化である。391年から翌年にかけては、伝統の神々への供犠そのものが禁じられた。すべての者に信仰の自由を、とうたって少数派を守った文書から、わずか2世代のうちに、守られた側が多数派となり、ほかの祭祀を禁じる側に回ったことになる。