ウィットビー教会会議
概要
ノーサンブリア王が、復活祭の日付をアイルランド式にするかローマ式にするかを決めた。ローマ式。「天国の鍵はペテロが持っている」という一言で。アイオナから来た僧は島へ帰り、イングランドはローマの側についた。
場所
54.49°N -0.61°E · イングランド
本文
7世紀のブリテン島には、二つの道からキリスト教が入ってきていた。一つは南からの道である。597年、ローマの教皇グレゴリウス1世(グレゴリウス1世の即位)が送った修道士アウグスティヌスが、ケントの王国に上陸し、カンタベリーを拠点に布教を始めた(アウグスティヌスのケント布教)。もう一つは北西からの道だった。563年、アイルランドの修道士コルンバがスコットランドの西の小島アイオナに修道院を開き(コルンバのアイオナ修道院)、そこからスコットランドとイングランドの北へ、修道士たちが教えを広めていった。
北イングランドの大きな王国ノーサンブリアでは、王オスワルドが、亡命していた若いころにアイオナの修道士たちのもとで洗礼を受けていた。635年、王に招かれてアイオナから修道士エイダンがやって来て、海辺の潮の満ち干で陸続きになる島リンディスファーンに修道院を開き、司教の座を置いた。エイダンは馬に乗らず歩いて村々を回り、贈られた物を貧しい人に分け与えたと伝えられる。ノーサンブリアの教会は、こうしてアイルランド風の教会として根を張った。のちにリンディスファーンの福音書が生まれるのも、この修道院である。

アイルランド風の教会とローマ風の教会は、信仰の中身では違わなかったが、いくつかの習わしが異なっていた。最も大きな違いは、キリストの復活を祝う復活祭の日付の計算の仕方である。両者は月の満ち欠けと春分から日付を割り出す表を別々に使っていたため、年によって復活祭の日が一週間ほどずれた。修道士の髪の剃り方も違った。ローマ風は頭のてっぺんを丸く剃り、周りに冠のような髪を残す。アイルランド風は、頭の前の方を耳から耳まで剃り上げた。
違いは、王の家族の中にまで及んだ。オスワルドの弟で、後を継いだ王オスウィウはアイルランド風の教会で育ったが、王妃エアンフレドは、ケントの宮廷で育ち、ローマ風の習わしに従っていた。ある年には、王が復活祭を祝って宴を開いている同じ日に、王妃はまだ復活祭の前の断食を続けていた、と8世紀の歴史家ベーダ(ベーダ)は書いている。王の息子も、ローマ風に傾いていた。

664年、オスウィウ王は、ウィットビーの修道院に双方の聖職者を集め、どちらの習わしに従うかを決める会議を開いた。修道院を率いていたのは、王家の血を引く女性の院長ヒルダで、男女の修道士がともに暮らす大きな修道院だった。アイルランド風の側を代表したのは、リンディスファーンの司教コルマンである。ローマ風の側の弁論を担ったのは、ローマへ旅して学んだ若い修道院長ウィルフリッドだった。
ベーダの『イングランド教会史』(ベーダ『イングランド教会史』)によれば、コルマンは、自分たちの習わしは福音書を書いた使徒ヨハネから伝わり、聖なるコルンバも守ってきたものだと述べた。ウィルフリッドは、ローマの習わしはローマで殉教した使徒ペテロとパウロから伝わり、イタリアにもガリアにもアフリカにも東方にも、全世界の教会で守られている、遠い島の片隅の人びとだけが違うのだ、と反論した。そしてキリストがペテロに天国の鍵を授けたことを挙げた。王はコルマンに、ペテロに天国の鍵が与えられたというのは本当か、と問い、コルマンは本当だと認めた。王は言った。それなら私は門番であるペテロに逆らうまい。天国の門に着いたとき、鍵を持つ者に門を閉ざされては困るから、と。会議はローマ風に従うことで決した。

コルマンは決定を受け入れられず、自分に従う修道士たちを連れてアイオナへ帰り、のちにアイルランドへ移った。ノーサンブリアの教会は、カンタベリーとローマにつながる教会の仕組みの中に入っていく。アイオナの修道院そのものがローマ式の復活祭を受け入れたのは716年、ウェールズの教会はさらに遅れて768年のことだった。
この決定は、イングランドの教会を大陸の教会と固く結びつけた。ローマから来た大司教のもとで教会の組織が整えられ、ローマの書物や学問、教会の建築の技術が北イングランドに流れ込む。その中から、ベーダのような学者が育った。ウィルフリッドのもとで学んだウィリブロルドは、海を渡ってフリジア、いまのオランダの布教に向かい、のちにはイングランド南部出身のボニファティウスが、ドイツの人びとへの布教に生涯を捧げた。アイルランドの修道士たちも、それ以前から大陸に渡って修道院を開いていた(コルンバヌスのボッビオ)。復活祭の日付という小さな問題を決めた会議は、イングランドがどちらの世界の一員になるかを決める会議でもあった。