サヴォナローラ
概要
フェラーラの医者の孫。ドミニコ会。サン・マルコ。「剣が来る」。ロレンツォの死と、フランス軍の到来を「予言」した。メディチが逃げ、彼の共和国。教皇アレクサンデル6世を「偽の教皇」と呼び、破門された。火の試練。拷問。絞首刑と火刑。同じ広場。
関わったできごと(1)
虚栄の焼却AD1497年2月7日 · 説教師本文
ジローラモ・サヴォナローラは、1452年9月21日、北イタリアのフェラーラで生まれた。祖父ミケーレはパドヴァ出身の名高い医師で、フェラーラのエステ家の宮廷に仕えていた。ジローラモは祖父から教育を受け、医師になるはずだった。だが若い彼は、宮廷のぜいたくと教会の堕落に強い嫌悪を抱いた。

1475年、22歳のとき、家族に告げずに家を出て、ボローニャのドミニコ会の修道院に入った。父に宛てた手紙で、世の中の大きな惨めさと人々の悪徳に耐えられなかったと書いている。
1482年、フィレンツェのサン・マルコ修道院に送られた。はじめのうち説教は評判が悪かった。声はかすれ、フェラーラの訛りがあり、聴衆はまばらだったという。各地を回って説教を重ねるうちに、彼は聖書の黙示録や預言者の書をもとに、教会への神の罰と刷新の到来を語るようになり、熱のこもった語り口で人を引きつけ始めた。

1490年、人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの願いで、ロレンツォ・デ・メディチがサヴォナローラをフィレンツェに呼び戻した。翌年、彼はサン・マルコの院長になった。院長は、修道院の大きな後援者であるロレンツォに挨拶に行く習わしだったが、彼は行かなかった。説教では、権力者の贅沢と重税、腐敗した聖職者を名指しに近い形で責め、まもなく剣が下り、教会は罰を受けると予言した。
1492年4月、ロレンツォが死んだ。のちの信奉者の伝記によれば、ロレンツォは臨終の床にサヴォナローラを呼び、サヴォナローラはフィレンツェに自由を返すよう求めたが、ロレンツォは顔を背けたという。その場にいた人文主義者ポリツィアーノは、サヴォナローラは祝福を与えて去ったと書いており、この話は後の創作とみる研究者が多い。同じ年、ボルジア家のアレクサンデル6世が買収によって教皇の座に就いた。

1494年、フランス王シャルル8世が大軍を率いてイタリアに攻め込んだ(イタリア戦争)。人々は予言された剣が来たと受け取った。ロレンツォの子ピエロが戦わずにフランスに要塞を明け渡すと、怒った市民はメディチ家を追い出した。サヴォナローラは使節としてシャルルに会い、フィレンツェを荒らさずに通り過ぎるよう説いた。フランス軍は去り、サヴォナローラは市の指導者となった。
彼の後押しで、市民数千人が加わる大評議会が作られ、共和政が立て直された。一方で、彼はフィレンツェを神の町にしようとした。キリストを町の王と宣言し、少年たちの隊に家々を回らせて、賭博の道具、化粧品、華美な服、不道徳とされた本や絵を集めさせ、広場で焼いた(虚栄の焼却)。画家ボッティチェリも彼の説教に深く影響を受けたと伝えられる。

教皇アレクサンデル6世は、フランスの側に立ち、教皇を批判し続けるこの修道士を危険視した。ローマに来るよう命じ、説教を禁じたが、サヴォナローラは従わなかった。1497年5月、教皇は彼を破門した。彼は破門は無効だとして説教を続けた。市内では、彼を支持する「泣き虫」派と、反対派の対立が激しくなった。
1498年4月、反対派のフランチェスコ会士が、どちらが正しいかを火の中を歩いて神に決めてもらおうと挑んだ。4月7日、広場に薪が積まれ、群衆が集まったが、双方の条件をめぐる言い争いと雨で、試練は行われないまま終わった。失望した群衆は翌日サン・マルコ修道院を襲い、サヴォナローラは捕らえられた。

拷問で、彼は自分は神から預言を受けていないと認めたとされる。調書には改ざんがあったともいわれる。5月23日、サヴォナローラは二人の修道士とともに、虚栄の品を焼いたのと同じシニョリーア広場で絞首され、遺体は焼かれた。灰はアルノ川に流された。
ニッコロ・マキャヴェッリは『君主論』で、武器を持たない預言者は滅びる例として彼を挙げた。その後も信奉者は残り、1527年にメディチ家が再び追われると、共和国はもう一度キリストを王と宣言した。のちにマルティン・ルターは彼を宗教改革の先駆けとして称えた。カトリック教会の側でも、彼を聖人に列する手続きが20世紀に始まっている。