オリゲネス
概要
父が殉教した17歳で、アレクサンドリアの教理学校を継いだ。自分で去勢したと伝わる。旧約の六つの本文を並べた『ヘクサプラ』、体系的神学の最初『諸原理について』。デキウスの迫害で拷問され、その傷で死んだ。死後300年で異端にされた。
所属
ローマ帝国関わったできごと(1)
オリゲネス『諸原理について』AD230年頃 · 著者本文
オリゲネスは、3世紀のアレクサンドリアに生まれたキリスト教の神学者である。聖書の本文を校訂し、注解を書き、キリスト教の教えをギリシア哲学の言葉で初めて体系的に論じた。生涯に書いたものは数千巻にのぼったと古代の人々は伝える。信仰のために拷問を受けた人でありながら、死後には異端とされ、その著作の多くは失われた。

185年ごろ、エジプトのアレクサンドリアで、キリスト教徒の家に生まれた。この人について私たちが知ることの多くは、1世紀ほど後に司教エウセビオスが書いた『教会史』による。父のレオニデスは息子に、ギリシアの学問とともに聖書を教え、毎日いくつかの句を暗唱させた。少年は書かれた言葉の奥にある意味を問い、父は年に似合わないことを聞くなと叱ったが、夜になると、眠っている息子の胸に、聖霊の宿る場所として口づけをしたという。
202年、皇帝セプティミウス・セウェルスの時代の迫害で、父は捕らえられ、斬首された。17歳のオリゲネスは自分も殉教しようと家を出かけたが、母が彼の服を隠したため外へ出られず、獄中の父に、私たちのために心を変えないでください、と手紙を書いたと伝えられる。父の財産は没収され、オリゲネスは母と6人の弟とともに貧しくなった。ある裕福な婦人が彼を援助したが、その家に異端とされる教師が出入りしていたので、オリゲネスは決して一緒に祈らなかったという。

彼はギリシア語の文法を教えて家族を養った。まもなく、迫害で指導者が町を去ったあとの教理学校で教えるよう、アレクサンドリアの司教デメトリオスに任された。まだ18歳だった。オリゲネスは昼は教え、夜は聖書を読んで過ごし、床に寝て、靴を履かず、手持ちの古典の写本を売って、わずかな日銭で暮らした。迫害の中で殉教に向かう弟子たちに付き添い、群衆から石を投げつけられたこともあった。エウセビオスによれば、彼は若いころ、福音書の言葉を文字どおりに受け取って、自らを去勢した。この話を疑う研究者もいる。
オリゲネスは、キリスト教の外の学問からも学んだ。アレクサンドリアの哲学者アンモニオス・サッカスの講義に出ていたと伝えられる。アンモニオスは、のちに新プラトン主義を開いたプロティノスの師でもある。ヘブライ語も学んだ。

その学識の評判は広く知れ渡り、ローマやアラビアにも招かれた。皇帝セウェルス・アレクサンデルの母ユリア・マンマエアも、アンティオキアに彼を呼び寄せて教えを聞いている。215年ごろ、皇帝カラカラの軍がアレクサンドリアで住民を殺した混乱を避けて、パレスティナに移ったとき、オリゲネスは当地の司教たちに頼まれて、聖職者でないまま教会で説教をした。これに司教デメトリオスは怒った。
裕福な信徒のアンブロシオスがオリゲネスの後援者になると、仕事の量は桁違いに増えた。アンブロシオスは、口述を書き取る速記者を7人以上、清書する写字生を7人以上つけた。この時期に書かれたのが、キリスト教の教えを神、世界、人間、聖書の解釈に分けて論じた『諸原理について』である(オリゲネス『諸原理について』)。

230年ごろ、パレスティナのカイサリアで、オリゲネスは当地の司教から司祭に叙階された。だがデメトリオスは、自分の許しなく、しかも去勢した者を叙階したことは無効だとして、彼をアレクサンドリアの教会から退けた。オリゲネスはカイサリアに移り住み、学校を開いた。彼が集めた書物は、のちにエウセビオスらが使う大きな図書館の核になった。
カイサリアで完成させた大事業の一つが『ヘクサプラ』(六欄)である。旧約聖書のヘブライ語の本文、それをギリシア文字で写した読み、そして四種類のギリシア語訳を、六つの欄に並べて書き写したもので、どの訳がもとの本文から離れているかを一目で比べられるようにした。古代の本文研究の最大の成果とされ、のちにヒエロニムスもカイサリアでこれを見て、ラテン語訳の聖書(ヒエロニムスのウルガタ)に役立てた。晩年には、70年ほど前に異教の哲学者ケルソスが書いたキリスト教批判の書に、一節ずつ引用して反論する『ケルソス駁論』を書いた。ケルソスの書そのものは失われ、いまはこの反論の中の引用でしか読めない。

オリゲネスの考えには、のちの正統の教えから見て大胆なものが多かった。人間の魂は体を得る前から神とともに存在していたこと、聖書には文字どおりの意味の奥に、魂と霊にあたる深い意味があること、そして最後にはすべての者が神のもとに立ち返るかもしれないこと。これらは、教えの言葉がまだ固まっていない時代の、問いを開いたままの思索だった。
250年、皇帝デキウスがすべての住民に神々への犠牲を命じ、キリスト教徒への初めての帝国全体の迫害が始まった(デキウスの迫害)。60代のオリゲネスは捕らえられ、鉄の首枷をはめられ、足を引き裂くように広げる台に何日も縛られ、火で脅された。役人たちは彼を殺さず、信仰を捨てさせようとした。オリゲネスは屈しなかった。デキウスが戦死して迫害が止むと釈放されたが、拷問の傷で体は弱り、253年ごろ、フェニキアのテュロスで死んだ。69歳だった。

死後、オリゲネスの名は論争の的になった。彼の思想を受け継ぐ修道士たちと、それを危険視する者たちの争いは4世紀の末から激しくなり、6世紀には皇帝ユスティニアヌス1世の主導で、オリゲネスの説が公会議で断罪された。その結果、ギリシア語の原文の多くが失われ、『諸原理について』もラテン語訳で伝わるにとどまった。それでも、聖書を本文から読み直し、信仰を理性で問い続けたオリゲネスのやり方は、東西の教会の神学の出発点になっている。