できごと

マカバイの反乱

Maccabean Revolt
BC167年
重要度 4
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概要

セレウコス朝の王が神殿にゼウスの祭壇を置き、割礼と安息日を禁じた。祭司マタティアが村で王の役人を殺し、5人の息子が山へ。ユダ・マカバイが3年で神殿を取り戻した。その日を祝う灯がハヌカー。ユダヤの独立王国が80年続く。

場所

モディイン
31.89°N 35.01°E · イスラエル

関わった人(2)

ユダ・マカバイ?–BC160年 · 指導者アンティオコス4世エピファネスBC215年頃–BC164年 · 王

本文

アレクサンドロス大王の死後、ユダヤの地は、エジプトのプトレマイオス朝と、シリアを本拠とするセレウコス朝のあいだで奪いあわれ、紀元前200年ごろからセレウコス朝の支配下に入った。ユダヤ人はエルサレムの神殿と大祭司を中心に、自分たちの律法に従って暮らすことを認められていた。だが地中海の東一帯にはギリシアの言葉と文化が広がっており、ユダヤ人の上層の中にも、ギリシア風の暮らしに惹かれる人々が増えていた。

紀元前175年、アンティオコス4世エピファネスが王位につくと、この流れが一気に表に出た。大祭司オニアス3世の弟ヤソンが、王に多額の金を納めて兄から大祭司の職を手に入れ、エルサレムにギリシア式の体育場を建てた。若者たちが裸で競技に励み、祭司までが神殿の務めを放って見物に行った、と『マカバイ記二』は嘆いている。数年後には、さらに多くの金を積んだメネラオスが、ヤソンから大祭司職を奪った。メネラオスは大祭司を出す家の出ではなかった。神殿の最高の職が、王に金を払う者の手に渡るようになったのである。

マカバイ戦争を描いた絵画(スタットラー画)
マカバイ戦争を描いた絵画(スタットラー画)Wikimedia Commons Wojciech Stattler · Public domain

紀元前168年、アンティオコスはエジプトに攻めこみ、アレクサンドリアに迫った。ところがそこへローマの使者ポピリウス・ラエナスが現れ、撤退を求める元老院の決定を突きつけた。王が考えさせてほしいと言うと、使者は杖で王の周りの砂に円を描き、この円から出る前に答えよ、と迫ったという。王は引き下がるしかなかった。そのころエルサレムでは王が死んだという噂が流れ、ヤソンが兵を率いて町に戻り、メネラオスを攻めた。アンティオコスはこれを反乱と見て、エルサレムを攻めて多くの住民を殺し、神殿の宝物を奪い、町の中に自分の兵が詰める城砦を築いた。

紀元前167年、王はさらに踏みこんだ。ユダヤの律法そのものを禁じたのである。割礼、安息日を守ること、律法の書を持つことが禁じられ、背いた者は死刑とされた。人々は豚の肉を食べ、異教の神に犠牲を捧げることを強いられた。その年の冬、エルサレムの神殿の祭壇の上に異教の祭壇が築かれ、ゼウスに献げられた。旧約聖書の『ダニエル書』が「荒廃をもたらす憎むべきもの」と呼んでいるのは、これだと考えられている。『ダニエル書』の後半は、まさにこの迫害のさなかに書かれたというのが、今日の研究者の多くの見方である。

ユダ・マカバイの勝利、ギュスターブ・ドレ画
ユダ・マカバイの勝利、ギュスターブ・ドレ画Wikimedia Commons Gustave Doré · Public domain

なぜ王がここまでしたのかは、よく分かっていない。帝国をギリシア文化で一つにまとめようとしたという古い説明のほかに、ギリシア化を進めたいユダヤ人の上層の側がこれを王に吹きこんだのだという説、反乱を起こしたユダヤ人への罰として律法を奪ったのだという説などがある。いずれにせよ、この反乱は、外の王に対する戦いであると同時に、ユダヤ人どうしの、ギリシア化を受け入れる側と拒む側の争いでもあった。

火がついたのは、エルサレムの北西にあるモディインという村だった。王の役人が来て、村の人々に異教の祭壇へ犠牲を捧げるよう命じた。村の祭司マタティアは、それを拒んだ。すると別のユダヤ人が進み出て、命令どおり犠牲を捧げようとした。マタティアは怒りに燃えてその男を祭壇の上で殺し、王の役人も殺し、祭壇を打ち壊した。そして、律法に熱心な者は私に続け、と叫んで、5人の息子とともに山へ逃れた。

紀元前188年の小アジアの地図
紀元前188年の小アジアの地図Wikimedia Commons en:William Robert Shepherd · Public domain

山や荒れ野に逃れた人々のうち、ある一団は、安息日に攻められて、安息日を汚すまいと戦わずに殺された。その数は1000人にのぼったという。これを聞いたマタティアたちは、安息日であっても攻められたら戦う、と取り決めた。律法を守るために戦うという、この反乱の性格を表す決断である。

紀元前166年ごろマタティアが死ぬと、三男のユダ・マカバイが指導者になった。「マカバイ」は「槌」を意味するあだ名と考えられている。ユダは土地をよく知る小さな兵力で、山あいの道でセレウコス朝の討伐軍を待ち伏せ、ベト・ホロン、エマオ、ベト・ツルと、何度も打ち破った。

マカバイ戦争の戦闘地図
マカバイ戦争の戦闘地図Wikimedia Commons SnowFire · CC BY 4.0

紀元前164年、ユダはエルサレムを取り戻した。異教の祭壇を取り除き、汚された石を捨て、新しい祭壇を築いて、神殿を清めた。神殿が汚されてからちょうど3年後の、キスレウの月の25日だったと『マカバイ記一』は伝える。祝いは8日間続き、毎年この日を祝うことが定められた。これがハヌカー(奉献)の祭りの始まりである。一日ぶんしかなかった油が8日間燃え続けた、という有名な話は、何百年も後のタルムードに出てくるもので、『マカバイ記』には書かれていない。同じ年、アンティオコス4世は東方への遠征の途中で病に倒れて死んだ。

戦いはそこで終わらなかった。ユダはローマに使者を送って友好の約束を結んだ。ユダヤ人がローマと結んだ最初の取り決めとされる。だが紀元前160年、ユダはエラサでセレウコス朝の将軍バッキデスの大軍と戦い、戦死した。『マカバイ記一』によれば、味方の多くが逃げ去って手元に残ったのはわずか800人で、退こうという部下に、ユダは、逃げるなどとんでもない、時が来たなら同胞のために勇ましく死のう、と答えたという。

ハスモン朝成立当初の南レヴァントの地形図
ハスモン朝成立当初の南レヴァントの地形図Wikimedia Commons John George Bartholomew / Edinburgh Geographical Institute · Public domain

指導者の座は弟たちに引き継がれた。ヨナタンは大祭司となり、最後の弟シモンの代の紀元前140年代に、ユダヤは事実上の独立を勝ち取った。シモンの子孫はハスモン家と呼ばれ、大祭司と王を兼ねる王朝を開いた(ハスモン朝の独立)。この独立は、紀元前63年にポンペイウスがエルサレムに入るまで、およそ80年続いた(ポンペイウスのエルサレム占領)。

反乱の物語は、ギリシア語で伝わった『マカバイ記一』『マカバイ記二』に残る。カトリックと正教会はこれを旧約聖書に含めるが、ユダヤ教とプロテスタントの聖書には入っていない。ハヌカーは、ヘブライ語の聖書に起源を持たない祭りだが、新約聖書の『ヨハネによる福音書』には、イエスが冬の「宮清めの祭り」のときにエルサレムの神殿にいた、と書かれている。ギリシア化を拒んで立ち上がった一族の子孫たちは、やがて自分たちもアリストブロス、アレクサンドロスといったギリシア風の名を名乗るようになった。勝った者が、負かした相手の文化を身にまとっていく。その皮肉も、この反乱の歴史の一部である。

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