第1回十字軍のエルサレム占領

概要
住民が大量に殺された。この記憶が、以後900年にわたって双方の側で引かれることになる。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
本文
1095年11月、フランス中部のクレルモンで教皇ウルバヌス2世が説教し、東方のキリスト教徒を助け、聖地を異教徒の手から取り戻せと呼びかけた。十字軍の呼びかけのきっかけは、マンジケルトの戦いの後にアナトリアの大半を失ったビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスが、西方に兵の派遣を求めたことだった。だが教皇の言葉は、皇帝の求めをはるかに越えて広がった。罪の赦しを約束された騎士と民衆が、翌年から続々と東へ向かった。
先に出発した民衆の群れは、小アジアに渡ったところでテュルクの軍に討ち滅ぼされた。続いて、ゴドフロワ・ド・ブイヨン、トゥールーズ伯レーモン、南イタリアのノルマン人ボエモンらが率いる諸侯の軍が、コンスタンティノープルに集まった。1097年にニカイアを取り、アナトリアを横切って、シリアのアンティオキアを8か月かけて落とした。その間に飢えと病で多くの者が死に、脱落する者も出た。諸侯どうしの争いもあって、進軍は遅れた。

エルサレムは当時、セルジューク朝の手からエジプトのファーティマ朝に移ったばかりだった。ファーティマ朝の総督は十字軍の接近を知ると、周りの井戸に毒を入れたりふさいだりし、城内のキリスト教徒の住民を内通を恐れて町の外へ追い出した。1099年6月7日、十字軍はエルサレムの城壁の前に着いた。残っていた兵は、騎士が千数百、歩兵を合わせても1万数千ほどだったと見積もられている。
最初の攻撃は、はしごが足りずに失敗した。夏の暑さの中で水は乏しく、兵たちは遠くの泉まで水を汲みに行かなければならなかった。そこへ、ヤッファの港にジェノヴァの船が着き、その木材で攻城の塔が組み立てられた。7月8日、兵たちは司祭の先導で裸足になって城壁の周りを行進し、祈りを捧げた。古代のエリコの城壁を角笛で崩したという聖書の話にならったものである。

7月15日、ゴドフロワの部隊の塔が北の城壁に取りつき、兵たちが城内になだれ込んだ。南ではレーモンの部隊も城壁を越えた。ダビデの塔に立てこもった総督は、レーモンに降伏し、身の安全を約束されて部下とともにアスカロンへ去った。だが、それ以外の住民には同じ運命は与えられなかった。
十字軍の兵たちは町じゅうで住民を殺した。多くの人が逃げ込んだ神殿の丘、アル・アクサー・モスクと岩のドームの周りで、最も大きな殺戮が起きた。十字軍に従軍した司祭アギレのレーモンは、ソロモンの神殿で人々が膝まで、さらには馬の手綱の高さまで血に浸かって進んだと書いた。これはヨハネの黙示録の一節を踏まえた言い回しで、文字どおりの描写ではないとされる。ただ、十字軍の側の記録は殺戮を隠していない。むしろ、神の正義が果たされた勝利として誇らしげに書いている。ユダヤ教徒の住民もシナゴーグに逃げ込んだところを焼かれたと、ダマスカスの年代記は伝える。

殺された人の数は分からない。約1世紀後にイブン・アル=アシールは、アル・アクサーだけで7万人が殺されたと書いたが、これは誇張とみられている。同じ時代のイスラーム側の学者の記録には3千人という数もあり、カイロに残るユダヤ人共同体の手紙からは、身代金で解放された人々がいたことも分かっている。数がどうであれ、聖なる町の住民の多くが殺されるか連れ去られたことは確かである。
町を取った後、諸侯はゴドフロワを統治者に選んだ。ゴドフロワは、キリストが茨の冠をかぶった町で金の冠はかぶれないとして、王の称号を受けず「聖墳墓の守護者」を名乗ったと伝えられる。翌年、その弟ボードゥアンが王を名乗り、エルサレム王国が始まった。十字軍の多くの兵は誓いを果たして故郷へ帰り、残った少数のラテン人が、周りをムスリムの国々に囲まれた土地を治めることになった。
イスラーム世界の反応は、初めは鈍かった。セルジュークの諸侯は分裂し、エジプトとシリアも対立していた。避難民がバグダードのカリフの宮廷で窮状を訴えても、大きな動きにはならなかった。やがてシリアのザンギーとヌールッディーンのもとで、聖地を取り戻すための戦いが唱えられるようになり、その流れを受け継いだサラディンが、1187年のヒッティーンの戦いの後、88年ぶりにエルサレムを取り戻した。このときサラディンは住民の命を奪わず、身代金を払った者を町から去らせた。

1099年の殺戮と1187年の寛容の対比は、その後の長い年月、双方の側で語り継がれてきた。十字軍の記憶は、近代のヨーロッパの植民地支配や20世紀の中東の争いの中で、繰り返し呼び起こされることになる。