アイスランドのキリスト教受容

概要
アルシングで異教徒とキリスト教徒が別々の法を持つと言い出し、法の語り手ソルゲイルが一日一晩、外套をかぶって考えて、「一つの法、一つの信仰」と告げた。キリスト教。ただし馬肉を食べることと子捨てと、隠れて神々に供えることは許す。戦争なしで宗教が変わった。
場所
64.26°N -21.13°E · アイスランド
本文
アイスランドに人が住みつくようになったのは、874年ごろからとされる(アイスランド入植)。多くはノルウェーから、王の力が強まるのを嫌って海を渡った人々だった。彼らは王を置かず、930年、島の南西のシングヴェトリルの野に、全島の集会アルシングを開いた(アルシングの開設)。各地の有力者ゴジは、族長であると同時に神殿を守る神官でもあり、オーディンやトール、フレイといった神々を祀っていた。法は書かれておらず、3年の任期で選ばれた「法の語り手」が、それを暗記し、集会のたびに「法の岩」の上から人々に語って聞かせた。
10世紀の終わり、北ヨーロッパではキリスト教が王の力とともに広がっていた。995年にノルウェーの王となったオーラフ・トリグヴァソンは、剣を手に自国を改宗させ、その手をアイスランドにも伸ばした。王が送り込んだ宣教師サングブラントは、ザクセン出身の乱暴な司祭で、何人かの有力者を改宗させたものの、自分を風刺の詩で嘲った者を殺し、島を追われるようにノルウェーへ帰った。怒ったオーラフは、ノルウェーにいたアイスランドの異教の有力者の息子たちを捕らえ、島が改宗しなければ殺すと脅した。洗礼を受けていたアイスランド人のギツルとヒャルティは、自分たちがアルシングで改宗を説くと約束して島へ戻った。

999年か1000年の夏、シングヴェトリルのアルシングに、キリスト教徒と異教徒は武器を携えて集まった。両派は法の岩に代わる代わる上り、互いに相手の法には従わないと宣言した。一つの島に二つの法、二つの民が生まれようとしていた。それは、血の復讐が際限なく続く内戦を意味した。
キリスト教徒の側の法の語り手ハットルは、異教徒の側の法の語り手であるリョーサヴァトンのソルゲイルに、どちらの法を採るかの判断を委ねた。ソルゲイル自身は異教徒だった。彼は自分の天幕に戻ると、外套を頭からかぶって横たわり、一日と一晩、身動きもせず、誰とも口をきかなかった。

翌日、ソルゲイルは人々を法の岩に集めて語った。もし法を二つに分ければ、平和も二つに分かれる。それはこの国には耐えられない。だから、すべての者が一つの法を持たなければならない。法を引き裂けば、平和を引き裂くことになる。そして彼は告げた。すべての人はキリスト教徒となり、まだ洗礼を受けていない者は受ける。ただし、赤子を野に捨てることと、馬の肉を食べることは、古い法のとおり許す。古い神々に供え物をするのも、人に見られないところでなら罪に問わない。見た者がいれば、3年の追放とする。両派はこれを受け入れた。
この経緯は、1120年代から30年代に司祭アリ・ソルギルソンが書いた『アイスランド人の書』に記されている。出来事から100年あまり後の記録だが、アリはソルゲイルの判断を直接見た人から話を聞いた人々を情報源に挙げている。馬肉と子捨ての許しは、数年のうちに取り消された、ともアリは書く。のちの伝えでは、北から来た人々は冷たい川を嫌って、帰り道の温泉で洗礼を受けたという。ソルゲイルが家に帰って神々の像を滝に投げ込み、それでその滝が「神々の滝(ゴーザフォス)」と呼ばれるようになった、という話は、さらに後に生まれた言い伝えである。
ソルゲイルが外套の下で何を考えたのかは分からない。神々に問うていたのだという解釈もあれば、ノルウェーの王の脅しと、島の交易の行方を計算していたのだという解釈もある。キリスト教徒の側が彼に贈り物をして判断を頼んだ、とする後の書物もある。確かなのは、宗教の入れ替えが、戦ではなく、集会の手続きの中で決まったことである。大陸では、王が剣で改宗を迫り、それに逆らった者が殺された。アイスランドは、法を一つに保つために、信仰を選び直した。
同じ年、グリーンランドに住むアイスランド出身のレイフ・エリクソンが、西の海の向こうの土地へ向かったとされる(ヴィンランド到達)。サガは、レイフがオーラフ王からグリーンランドの改宗を命じられた帰りに、その土地を見つけたと語っている。アイスランドのキリスト教は、やがてローマの教会に組み込まれ、16世紀の宗教改革でルター派に変わった。2000年、アイスランドの人々はシングヴェトリルに集まり、改宗から千年を祝った。