アウクスブルクの和議

概要
「領主の宗教がその領地の宗教」。諸侯がカトリックかルター派かを選び、領民は従うか出ていく。カルヴァン派は数に入らなかった。60年の平和のあと、その穴から三十年戦争が始まる。
場所
48.37°N 10.90°E · ドイツ
本文
1517年にマルティン・ルターが声を上げてから(95か条の論題)、神聖ローマ帝国の諸侯や帝国都市は、カトリックにとどまる者と、ルターの教えに移る者とに割れていった。帝国はもともと、数百の諸侯、司教領、都市が皇帝のもとに緩く集まった寄り合いである。皇帝カール5世はカトリックの守り手を自任し、帝国の宗教を一つに戻すことを生涯の目標としていた。だが、フランスとの戦争、地中海と東欧に迫るオスマン帝国への対応に追われ、何度も妥協を重ねてきた。プロテスタントの諸侯は、1531年にシュマルカルデン同盟を結んで皇帝に備えていた。
1546年2月にルターが亡くなると、その年の夏、皇帝はついに武力に訴えた。シュマルカルデン戦争である。1547年4月24日、エルベ川のほとりのミュールベルクで皇帝軍は同盟軍を破り、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを捕らえた。ヴェネツィアの画家ティツィアーノは、甲冑をまとって馬にまたがる勝利の皇帝の肖像を描いている。

しかし、戦場の勝利は信仰を変えなかった。1548年、皇帝はアウクスブルクの帝国議会で、公会議が結論を出すまでの暫定の規則として仮信条協定(インテリム)を出した。司祭の結婚と、信徒がパンとぶどう酒の両方を受ける聖餐だけをプロテスタントに認め、それ以外はカトリックの教えと儀式に戻すという内容である。プロテスタントの多くはこれを拒み、エルベ川沿いの都市マクデブルクは抵抗の拠点となって、皇帝を非難する文書を次々に刷った。一方、トレントではトレント公会議が開かれていたが、プロテスタントの言い分が聞き入れられる見込みは無かった。
形勢を変えたのは、皇帝の味方だった男の寝返りである。ザクセンのモーリッツは、プロテスタントでありながらシュマルカルデン戦争で皇帝の側につき、従兄の選帝侯の位を手に入れていた。そのモーリッツが、1552年、フランス王と手を組んで皇帝に背いた。不意を突かれた皇帝は、インスブルックから夜のアルプスを越えて逃れた。痛風に苦しむ皇帝は、輿に乗せられていたという。8月のパッサウ条約で、皇帝の弟フェルディナントは、宗教の問題を次の帝国議会で恒久的に解決することを約束した。

1555年2月、アウクスブルクで帝国議会が開かれた。皇帝は姿を見せなかった。良心に反する妥協に自分の名を連ねたくない皇帝は、交渉を弟のフェルディナントに任せた。半年以上の交渉ののち、1555年9月25日、和議が結ばれた。
和議の中身は、のちの法学者がまとめた言葉で知られている。領地を治める者の宗教が、その領地の宗教となる(クイウス・レギオ、エイウス・レリギオ)。この言い回しは16世紀の末に作られたもので、和議の文書そのものには無いが、内容はこの通りだった。帝国の諸侯と帝国都市は、カトリックか、ルター派の信仰告白であるアウクスブルク信仰告白か、どちらかを選ぶことができる。領民は領主の選んだ宗教に従う。従えない者は、財産を処分して他の領地へ移ることが許された。宗教を理由に移り住む権利が、ここで初めて帝国の法になったのである。いくつかの帝国都市では、両方の宗派が並び立つことも認められた。
難しい問題は、教会の領地だった。1552年より前にプロテスタントが取り上げた教会の財産は、そのままとされた。だが、カトリックの大司教や司教がこの先ルター派に改宗した場合、その人は職と領地を失い、領地はカトリックにとどまる、という聖職者留保の条項が入れられた。プロテスタントはこれを認めなかったが、フェルディナントの判断で押し込まれた。その代わりにフェルディナントは、司教領に住むルター派の騎士や都市の信仰はそのまま認めるという宣言を別に出したが、こちらはカトリックが認めなかった。双方がそれぞれ認めない条項を抱えたまま、和議は成立した。
そして、この和議には大きな穴があった。選べる宗教は二つだけで、スイスで力を伸ばしていたカルヴァンの流れをくむ改革派(カルヴァンのジュネーヴ)や、再洗礼派は、法の外に置かれた。1563年頃にはライン宮中伯(プファルツ選帝侯)が改革派に移り、ハイデルベルク信仰問答を定めた。帝国の有力な選帝侯が、和議の認めない宗派の旗頭になったのである。
それでも、和議はおよそ60年、帝国に宗教戦争の起きない時代をもたらした。同じ頃、フランスは30年あまりの宗教内戦に引き裂かれていた(ナントの勅令で収まるのは1598年である)。和議の翌年、疲れ果てたカール5世は位を退き(カール5世の退位)、帝位は弟のフェルディナントへ、スペインは息子のフェリペへと分けられた。
だが、穴は塞がっていなかった。聖職者留保をめぐる争い、改革派の扱い、カトリックの巻き返しが積み重なり、1618年、プラハで皇帝の代官たちが城の窓から投げ落とされた事件をきっかけに、三十年戦争が始まる。1648年のウェストファリア条約は、アウクスブルクの和議を確認しつつ、改革派を正式に認め、1624年1月1日の状態を基準の年として教会の財産と宗派の配置を固定した。領主の宗教と違う信仰を持つ者にも、家の中で祈る自由が認められていく。

領主が領民の宗教を決めるという考えは、ドイツの各地に、領邦ごとの教会という形を残した。プロテスタントの教会の頂点に領主が立つ仕組みは、1918年に君主制が倒れるまで続いた。いまドイツで教会に属する人が国を通じて教会税を納めているのも、国と教会が深く結びついてきたこの長い歴史の名残である。