できごと

ミルウィウス橋の戦い

Battle of the Milvian Bridge
AD312年10月28日
重要度 5
ミルウィウス橋の戦いに関わる図版:Battle of the Milvian Bridge by Giulio Romano, 1520-24
Battle of the Milvian Bridge by Giulio Romano, 1520-24 Wikimedia Commons Giulio Romano · Public domain

概要

コンスタンティヌスがローマの北の橋でマクセンティウスを破った。前夜、空にしるしを見て、兵の盾にキリストの印を描かせたと伝わる。マクセンティウスはテヴェレに落ちて溺れた。翌年、ミラノ勅令。キリスト教の皇帝の始まり。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

コンスタンティヌス1世AD272年頃–337年5月22日 · 勝者

本文

3世紀の終わり、ローマ帝国はディオクレティアヌスのもとで、二人の正帝と二人の副帝が分担して治める四分統治の開始の仕組みをとっていた。305年、ディオクレティアヌスは自ら退位し、同僚の正帝マクシミアヌスも退いた。副帝が正帝に上がり、新しい副帝が選ばれる。だがこの選び方は、正帝の実の息子たちを外していた。

306年、ブリタニアのヨークで、西の正帝コンスタンティウスが死んだ。その場にいた兵たちは、息子のコンスタンティヌス1世を皇帝に推した。同じ年、ローマでは、元正帝マクシミアヌスの息子マクセンティウスが近衛隊と市民に推されて皇帝を名乗った。どちらも、四分統治の決まりの外での即位だった。その後の数年は、皇帝を名乗る者が一時は6人も並ぶ混乱が続いた。

ミルウィウス橋の戦い
ミルウィウス橋の戦いWikimedia Commons Pieter Lastman · Public domain

312年の春、コンスタンティヌスはガリアから軍を率いてアルプスを越え、イタリアに入った。兵は4万前後だったとされる。トリノの近くでマクセンティウス側の重装騎兵を破り、ミラノに入り、ヴェローナを囲んで落とした。北イタリアを押さえたコンスタンティヌスは、ローマへ向かって南下した。

マクセンティウスは、ローマを囲むアウレリアヌスの城壁の中に立てこもることもできた。かつて二度、別の皇帝の軍がローマを攻めたときには、籠城でしのいでいる。だが今度は、城を出て戦うことにした。決戦の日に選ばれた10月28日は、マクセンティウスが即位して6年目の記念日だった。キリスト教徒の著作家ラクタンティウスによれば、予言の書を調べさせると、その日ローマの敵が滅びると出た。マクセンティウスはそれを自分の勝利の予言と受け取ったという。

ミルウィウス橋の戦い(ジュリオ・ロマーノ)
ミルウィウス橋の戦い(ジュリオ・ロマーノ)Wikimedia Commons School of Raphael · Public domain

ローマの北、テヴェレ川に架かるミルウィウス橋は、フラミニア街道が都に入る要の橋だった。マクセンティウスは、敵の進軍を阻むために石の橋の一部を壊し、自軍が渡るために船を並べた仮の橋を架けたとされる。そのうえで、川を背にして軍を並べた。退く道は、狭い橋しか無かった。

戦いは、コンスタンティヌスの騎兵の突撃で始まり、マクセンティウスの騎兵を押し崩した。マクセンティウスの近衛隊は最後まで踏みとどまって戦ったが、ほかの兵は橋へ殺到した。人の重みで仮の橋が崩れ、多くの兵が川に落ちた。マクセンティウスも、鎧をつけたまま川に沈んだ。翌日、遺体が引き上げられ、首が槍に掲げられてローマの町を運ばれた。首はその後、北アフリカにも送られて見せしめにされた。

現在のミルウィウス橋
現在のミルウィウス橋Wikimedia Commons Anthony Majanlahti from Rome, Italy · CC BY 2.0

この戦いを有名にしたのは、戦いの前にコンスタンティヌスが見たという「しるし」である。戦いから数年後に書かれたラクタンティウスの著作は、コンスタンティヌスが夢の中で、兵の盾に神のしるしを描いて戦えと告げられ、ギリシア文字のXとPを組み合わせたキリストのしるしを描かせた、と伝える。一方、コンスタンティヌスの晩年に親しく接した司教エウセビオスは、皇帝の死後にまとめた伝記で、皇帝自身が誓って語ったこととして、行軍の途中、真昼の太陽の上に光の十字架と「これにて勝て」という言葉が現れ、全軍がそれを見た、その夜キリストが夢に現れた、と書いた。二つの話は、時期も内容も食い違っている。

戦いの3年後、315年にローマの元老院が建てた凱旋門には、キリスト教のしるしは見当たらない。銘文は、皇帝が「神性の促しにより」勝ったと記すだけで、どの神かを名指ししていない。コンスタンティヌスの硬貨には、その後もしばらく太陽神の像が刻まれ続けた。310年頃には、ガリアの神殿でアポロンの幻を見たという話も伝わっている。太陽の周りに光の輪や十字の形が現れる大気の現象を見たのではないかと考える研究者もいる。コンスタンティヌスがいつ、どれほど深くキリスト教の神を信じたのかは、いまも議論が続いている。

確かなのは、勝利の後の行動である。313年、コンスタンティヌスは東の皇帝リキニウスとミラノで会い、すべての人に自分の望む宗教を信じる自由を認め、迫害で奪われたキリスト教徒の財産を返すことで合意した。ミラノ勅令と呼ばれる取り決めである。わずか10年前には、ディオクレティアヌスの大迫害がキリスト教徒を襲っていた。コンスタンティヌスは教会に土地や特権を与え、ローマにラテラノ大聖堂を建てさせた。

ミラノ勅令に関わる図版:Constantine Chiaramonti Inv1749
ミラノ勅令Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

ただし、キリスト教が帝国の国教になるのは380年、テオドシウスの時代のことで(キリスト教の国教化)、コンスタンティヌスはその後も、古いローマの神々の祭祀をつかさどる最高神祇官の称号を手放さなかった。洗礼を受けたのは、337年、死の床でのことだった(コンスタンティヌスの洗礼と死)。

ミルウィウス橋の勝利は、のちに教会にとって特別な意味を持った。16世紀の初め、ヴァチカン宮殿の一室に、ラファエロの構想をもとに弟子たちが、この戦いと十字架の幻を描いた。教皇の権威の源を、最初のキリスト教の皇帝に結びつける絵である。中世には、コンスタンティヌスが西方の支配権を教皇に譲ったとする「コンスタンティヌスの寄進状」が教皇権の根拠とされたが、1440年、人文主義者のロレンツォ・ヴァッラが、その言葉づかいから後世の偽作であることを論証した。

コンスタンティヌスの夢とミルウィウス橋の戦い(879〜883年のギリシア語写本、グレゴリオス・ナジアンゾスの説教集より)
コンスタンティヌスの夢とミルウィウス橋の戦い(879〜883年のギリシア語写本、グレゴリオス・ナジアンゾスの説教集より)Wikimedia Commons Bibliothèque nationale de France · Public domain

ミルウィウス橋は、もとは紀元前2世紀の終わりに石で架けられた橋で、何度も壊され、架け直されながら、いまもローマの北でテヴェレ川を渡している。

同じ時代のできごと

四分統治の開始AD293年アクスムの紅海交易AD300年頃ディオクレティアヌスの最高価格令AD301年アルメニアのキリスト教国教化AD301年(伝承)ディオクレティアヌスの大迫害AD303年2月23日五胡十六国304年ミラノ勅令AD313年東晋の成立AD317年
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