東西教会の分裂
概要
ローマとコンスタンティノープルが互いを破門した。ヨーロッパが二つの信仰圏に分かれる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
本文
1054年7月16日、土曜日の午後。コンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂で礼拝が始まろうとしていたとき、ローマ教皇の使節たちが入ってきた。率いていたのはシルヴァ・カンディダの枢機卿フンベルトである。彼らは祭壇の上に一通の文書を置き、聖堂を出て行った。総主教ミカエル・ケルラリオスとその支持者を破門するという文書だった。助祭の一人が後を追い、持ち帰ってくれと頼んだが、使節たちは受け取らず、文書は通りに投げ捨てられたと伝えられる。数日後、総主教も教会会議を開き、使節たちを破門し返した。
きっかけは南イタリアだった。そこにはビザンツ帝国の領地が残り、ギリシア語で礼拝する教会があったが、ノルマン人が進出して土地を奪い、ラテン式の礼拝を持ち込み始めていた。教皇レオ9世はノルマン人と戦う一方で、南イタリアの教会を自らの管轄に置こうとした。これに反発したケルラリオスは、都にあるラテン式の教会を閉じさせ、ビザンツ側の聖職者は、聖餐に酵母を入れないパンを使う西の習わしを非難する手紙を書いた。教皇は使節を送り、話し合いはすぐに非難の応酬になった。

争点はいくつもあった。神学で最も重いとされたのは、信仰の基本を述べた信条の一語である。4世紀の公会議で定められた信条は、聖霊は「父から」出ると述べていた。西の教会はそこにラテン語で「そして子から(フィリオクェ)」を加えて唱えるようになっていた。6世紀のスペインに始まり、ローマも11世紀の初めにこれを採り入れた。東の教会から見れば、全教会の公会議で決めた信条を、西が勝手に書き換えたことになる。ほかにも、酵母を入れないパンを使うか、司祭が妻を持ってよいか、断食の決まりやひげを剃るかどうかまで、違いは数え上げられた。
どれも、それだけで教会が割れるほどの理由ではなかった。より深い問題は、教会の頂点に誰がいるかである。ローマの教皇は、使徒ペトロの後継者として全教会を治める権威を持つと主張した。東の総主教たちは、ローマに名誉ある首位は認めても、ほかの総主教の上に立って命令する権限までは認めなかった。教会の大事は公会議で決めるもの、というのが東の考え方だった。
背景には、数百年をかけて広がった隔たりがあった。西ではラテン語、東ではギリシア語が使われ、互いの言葉を読める聖職者は減っていった。8世紀からの聖像破壊論争では、東の皇帝が聖像の破壊を命じ、ローマはこれに反対した。800年のカール大帝の戴冠で、教皇が西にもう一人の「皇帝」を立てたことは、ローマ帝国の正統な後継者を自負するビザンツにとって侮辱だった。9世紀には、総主教の任命をめぐるフォティオスの分裂も起きている。

1054年の破門には、法的にもあいまいな点がある。教皇レオ9世は、使節たちが破門状を置く3か月前の4月に死んでいた。使節の権限は教皇の死で失われていたとも言える。破門されたのも東の教会全体ではなく、総主教とその周りの人々だった。当時の人々の多くは、これを決定的な分裂とは考えていなかった。過去にも対立と和解は繰り返されていた。実際、40年後の1095年に教皇ウルバヌス2世が十字軍の呼びかけを行ったのは、ビザンツ皇帝の援軍の求めに応じたものだった。
溝を決定的にしたのは、その十字軍だった。1204年、西からの十字軍の兵士たちはコンスタンティノープルを攻め落とし、第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪で教会と町を略奪した。ハギア・ソフィアにはラテン人の総主教が置かれた。東の人々にとって、ラテン人は異教徒と変わらない略奪者になった。その後、1274年のリヨン、1439年のフィレンツェの公会議で、オスマン朝に追い詰められたビザンツの皇帝は教会の合同を受け入れたが、都の聖職者と民衆の多くはこれを拒んだ。1453年のコンスタンティノープル陥落の後、東の教会はオスマン朝のもとで生き延び、やがてロシアがその大きな担い手になっていく。

こうしてヨーロッパは、二つの信仰の圏に分かれた。カトリックの西と、正教の東である。その境は、後のヨーロッパの文字(ラテン文字とキリル文字)の境ともかなりの程度重なっている。1965年12月、第二バチカン公会議の閉会の前日、教皇パウロ6世とコンスタンティノープル総主教アテナゴラス1世は、1054年の相互の破門を取り消すと共同で宣言した。破門は解かれたが、二つの教会は今も一つにはなっていない。