島原の乱

概要
重税とキリシタン弾圧に対する蜂起。鎮圧の後、幕府は禁教と統制をいっそう強める。
場所
32.79°N 130.37°E · 日本・長崎県
関わった人(1)
天草四郎AD1621年頃–AD1638年4月12日(寛永15年2月28日) · 総大将本文
16世紀の後半、九州の西の島原半島と天草の島々は、キリシタンの地だった。島原を治めた有馬晴信も、天草を治めた小西行長も、キリスト教の洗礼を受けた大名で、領民の多くもキリシタンになった。ザビエルの来日から数十年のうちに、この地方には教会や学校が建ち並んだ。
だが、天下人たちはキリスト教を恐れるようになった。豊臣秀吉はキリシタンを処刑し(二十六聖人の殉教)、江戸幕府は1614年に全国でキリスト教を禁じた(キリシタン禁教令)。小西行長は関ヶ原の戦いのあと斬られ、有馬家も別の領地に移された。代わって島原に入ったのが松倉重政、天草を治めたのは唐津の寺沢家だった。新しい領主たちは、領民に棄教を迫り、拒む者を拷問にかけ、雲仙の熱湯に浸けて殺すこともあった。

松倉家は、身の丈に合わない島原城を築き、そのための重い年貢を取り立てた。後を継いだ松倉勝家の代には、払えない者に蓑を着せて火をつけるなどの責めが行われたと伝えられる。1630年代の半ばには、凶作と飢饉が続いた。食べる物も無いのに年貢を取られ、信仰を捨てなければ殺される。人々の不満は限界に来ていた。
1637年の秋、寛永14年10月、島原で代官が殺されたのをきっかけに、村々の人々が一斉に立ち上がった。天草でも同じ動きが起きた。蜂起の中心には、かつて有馬家や小西家に仕え、主家を失って農民になっていた武士たちがいた。彼らが総大将に立てたのが、天草四郎時貞と呼ばれる少年である(天草四郎)。16歳ほどとされ、さまざまな奇跡を起こすと噂された。かつて追放された宣教師が、やがて天から遣わされた少年が現れると予言した、という話が、人々のあいだに広まっていた。

一揆の軍は、島原城や天草の富岡城を攻めたが落とせなかった。12月、彼らは島原半島の南にある原城に入った。有馬家の古い城で、廃城になっていた。女性や子どもを含め、3万数千人が城にこもったとされる。城には十字の旗が掲げられた。
幕府は九州の大名たちに鎮圧を命じた。初めに派遣された板倉重昌は、功を焦って城を攻め、寛永15年の元日の総攻撃で戦死した。代わって老中の松平信綱が着き、12万を超える軍で城を囲んで、兵糧が尽きるのを待つ策に切り替えた。信綱はさらに、平戸のオランダ商館に頼んで、オランダ船に海から城を砲撃させた。キリスト教の国の船が、キリシタンのこもる城を撃ったのである。この砲撃には、外国の力を借りるのは恥だという批判が幕府側の武士からも出て、まもなくやめさせられた。

城の中では食べ物が尽きていった。討ち取った一揆の兵の腹を割くと、海藻しか入っていなかったという話が残る。寛永15年2月の末、包囲からおよそ3か月で幕府軍は総攻撃をかけ、城は落ちた。こもっていた人々は、ほとんどが殺された。四郎も討ち取られ、その首は長崎にさらされた。生き残ったのは、幕府側に通じていた絵師一人だけだったとも伝えられる。
乱の後、松倉勝家は領民を苦しめた責任を問われて斬首された。大名が切腹ではなく斬首されたのは、江戸時代を通じてこの一例だけとされる。寺沢家も天草の領地を取り上げられた。

この乱がキリシタンの信仰の戦いだったのか、重い年貢に耐えかねた農民の一揆だったのかは、長く議論されてきた。いまは、その両方が重なっていたと見る考えが多い。ただ、幕府はこれをキリシタンの反乱として受け止めた。翌1639年、徳川家光の幕府はポルトガル船の来航を禁じた(鎖国の完成)。オランダとの貿易は、長崎の出島に限って続けられた。全国で宗門改めが強められ、人々はみなどこかの寺の檀家として届け出ることを求められた。
島原と天草の人々は、乱でほとんどいなくなった。幕府は各地から人を移して村を立て直させた。それでも、この地方の一部では、表向きは仏教徒として暮らしながら、ひそかに信仰を守り続けた人々がいた。2018年、その信仰の跡を伝える「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録され、原城の跡もその一つに含まれている。