概要
1521年、ヴォルムスの帝国議会で教えを撤回せず、帝国から追放されたルターは、ザクセン選帝侯にかくまわれ、ヴァルトブルク城に身を隠した。そこで彼は、新約聖書をギリシア語の原典から、わずか11週間ほどでドイツ語に訳した。1522年9月に出版された訳は、数か月で売り切れた。ルターは、学者の言葉ではなく、家の母親や路地の子どもや市場の庶民の口ぶりに耳を傾けて訳したと書いている。1534年には旧約を含む聖書の全訳が出た。誰もが自分の言葉で聖書を読めるようになり、ルターの訳は、方言に分かれていたドイツ語の書き言葉をまとめる土台になった。
場所
51.87°N 12.64°E · ドイツ
関わった人(1)
マルティン・ルターAD1483年11月10日–AD1546年2月18日 · 訳した本文
中世のヨーロッパの西方の教会では、聖書はラテン語で読まれた。4世紀にヒエロニムスが訳したラテン語の聖書が、教会の公の聖書だった。ラテン語を読めるのは聖職者と学者に限られ、庶民は、司祭の説教や教会の絵を通じてしか聖書の中身を知ることができなかった。各国の言葉への訳も一部にはあったが、教会はしばしばそれを警戒した。
1517年、95か条の論題で教会の贖宥状を批判したマルティン・ルターは、信仰のよりどころは教会の権威ではなく聖書だけだと説くようになった。1521年4月、ヴォルムスの帝国議会で皇帝カール5世の前に呼び出されたルターは、自説の撤回を拒み、帝国から追放された。帰り道、ザクセン選帝侯フリードリヒの手の者が、ルターを「誘拐」して、アイゼナハの近くの山の上のヴァルトブルク城にかくまった。ルターは「騎士ゲオルク」と名乗り、髭を伸ばして身を隠した。
城の一室で、ルターは新約聖書の翻訳に取りかかった。手もとにあったのは、エラスムスが出版したギリシア語の新約聖書だった。1521年の12月から翌年の2月ごろまで、わずか11週間ほどで、新約聖書の全体をドイツ語に訳し終えた。1522年3月、ルターはヴィッテンベルクに戻り、友人のメランヒトンと訳を見直した。9月に出版された新約聖書は、「九月聖書」と呼ばれる。画家クラーナハの木版の挿絵が入り、高価だったにもかかわらず、三千部ほどが数か月で売り切れた。
ルターは、のちに翻訳について書いた文章で、ドイツ語をどう話すかは、ラテン語の文字に尋ねるのではなく、家の母親や路地の子どもたち、市場の庶民に尋ね、彼らの口もとを見て訳さなければならない、と述べている。彼の訳は、生き生きとして力強く、読み上げられて耳で聞いて分かるドイツ語だった。仲間たちと旧約聖書の翻訳も進め、1534年に聖書の全訳が出版された。ルターの生前に、その聖書は数十万部が刷られたといわれる。
当時のドイツ語は、地方ごとに方言が大きく異なっていた。ルターは、ザクセンの役所の書き言葉をもとに、南と北の人々にも通じる言葉を選んだ。印刷機で大量に刷られたルターの聖書は、ドイツじゅうで読まれ、近代のドイツ語の書き言葉をまとめる土台になった。聖書を自分の言葉で読むことを求める動きは、ヨーロッパの各地に広がり、英語、フランス語、オランダ語などへの翻訳が次々に生まれた。