西ゴートのカトリック改宗
概要
王レカレドが第三回トレド教会会議でアリウス派を捨てた。ゴートの支配層と、ローマ系の住民の宗教が一つになる。250年ずれていた信仰が揃い、以後、トレドの教会会議が国を動かす。
場所
39.86°N -4.03°E · スペイン
本文
ゲルマン系の諸族がキリスト教に触れたのは、4世紀のことだった。ゴート人の司教ウルフィラは、ゴート語を書くための文字を作り、聖書をゴート語に訳して、ドナウ川の北のゴート人に布教した(ウルフィラのゴート語聖書)。ウルフィラが伝えたのは、当時の帝国の東方で皇帝に支持されていたアリウス派に近い教え、子なるキリストは父なる神と同じ本質ではない、とする信仰だった。325年のニケーア公会議で退けられたこの教えは、帝国の中ではやがて異端として追われていくが、ゴート人やヴァンダル人、ランゴバルド人のあいだでは、民族の信仰として残り続けた。
西ゴート人は、410年にローマを略奪したのち(西ゴートのローマ略奪)、南ガリアとイベリア半島に王国を築いた(西ゴート王国)。507年には、カトリックに改宗していたフランク王国のクローヴィスにガリアの領土の大半を奪われ(クローヴィスの改宗)、王国の重心はヒスパニアに移った。そこで西ゴート人は、数の上ではずっと多いヒスパノ・ローマ人、つまりローマ帝国の時代からこの地に住み、ラテン語を話し、カトリックを信じる人々を治めることになった。支配する側はアリウス派、支配される側はカトリック。二つの民は、法も別々で、長いあいだ互いの結婚も禁じられていた。

6世紀の後半に王となったレオヴィギルドは、西ゴート王国で最も強い王の一人だった。半島の北西にあったスエビ王国を585年に滅ぼし、東ローマ帝国が南東の沿岸に持っていた領土を攻め、反抗する貴族を抑えて、トレドを都に、半島の大半を一つの王権の下にまとめた。王は宗教でも国をまとめようとした。580年にはアリウス派の司教たちを集め、カトリックの信者がアリウス派に移りやすくなるよう教えを和らげる決定をさせている。統一の軸は、あくまでアリウス派だった。
その王の足元で反乱が起きた。長男のヘルメネギルドは、南のセビリャを治めていたが、フランクの王家から迎えたカトリックの妃と、セビリャの司教レアンデルの影響を受けて、カトリックに改宗した。579年、ヘルメネギルドは父に背いて王を名乗った。レオヴィギルドは数年かけて反乱を鎮め、息子を捕らえた。585年、ヘルメネギルドは幽閉先で殺された。教皇グレゴリウス1世は、のちに彼を信仰のために死んだ殉教者として描いている。

翌586年、レオヴィギルドが死に、次男のレカレドが王位を継いだ。レカレドは、即位の翌年の587年に、自らカトリックに改宗した。兄を死なせた信仰の争いを終わらせ、国の大多数を占めるヒスパノ・ローマ人と、その上に立つ司教たちの力を、王権の味方につけるための決断だったとみられている。アリウス派の司教や貴族の一部は反発し、王を倒そうとする陰謀もいくつか企てられたが、レカレドはそれを鎮めた。
589年5月、トレドで第3回トレド教会会議が開かれた。王と王妃が出席し、アリウス派から改宗した8人の司教と、ゴートの貴族たちが、アリウス派の教えを捨てることを誓い、ニカイアの信仰を受け入れる文書に署名した。会議を主導したのは、レアンデルだった。このとき唱えられた信条には、聖霊は父から出るという本来の文言に、「そして子から」(フィリオクェ)という語が加えられていた。アリウス派に対してキリストの神性を強く打ち出すための言葉だったが、この一語はのちに西方の教会全体に広がり、東方の教会との大きな対立の種になっていく。

これ以後、トレドの教会会議は、宗教の会議であると同時に、国の重要事項を決める場になった。王が司教と高官を集め、法を定め、王の選出や地位を認めさせた。7世紀のあいだに、第4回から第18回までの会議が開かれている。第4回の会議を主宰したのは、レアンデルの弟で、百科事典にあたる『イシドルス『語源』』を著したセビリアのイシドルスだった。教会と王権が一体となったこの国のあり方は、のちのスペインのカトリックの王国の原型とも言われる。
だがその一体化には、影の面もあった。王国がカトリックで一つにまとまると、ユダヤ教徒は異物として扱われた。612年には王シセブトがユダヤ人に改宗か国外退去を迫り、7世紀の会議では、ユダヤ人の子を親から引き離す、財産を取り上げて奴隷とするといった法が次々に定められた。711年、北アフリカから来たイスラームの軍がジブラルタル海峡を渡って王国を滅ぼしたとき、ユダヤ人が侵入者に協力した、と後の年代記は伝えている。

ゲルマン人の王国がローマ系の住民の宗教を受け入れて一つになる道は、ヨーロッパの各地で見られた。フランクは496年ごろに、いきなりカトリックに改宗することでそれを果たした。西ゴートは、それより90年あまり遅れ、王家の血を流したのちに、同じところにたどり着いた。北イタリアのランゴバルド人がアリウス派を捨てるのは、7世紀に入ってからのことである。