人物

テルトゥリアヌス

Tertullian
AD155年頃 – AD220年頃(享年65・推定)
ローマ帝国重要度 3

概要

カルタゴの法律家で、ラテン語で書いた最初のキリスト教著述家。「アテナイがエルサレムと何の関わりがあるか」と哲学を退け、「不合理ゆえに信ず」と言ったとされる。晩年は厳格なモンタノス派に移り、正統からは外れた。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

テルトゥリアヌス『護教論』AD197年 · 著者

本文

テルトゥリアヌスは、北アフリカのローマの大都市カルタゴで、2世紀の半ば頃に生まれた。生涯について確かなことはほとんど分からない。4世紀のヒエロニムスは、彼を属州総督付きの百人隊長の息子と書いている。本人の著作からは、ギリシア語とラテン語の教養を深く身につけ、修辞学と法律に通じていたこと、結婚していたこと、成人してから異教徒としてキリスト教に改宗したことが読み取れる。改宗は190年代とみられる。ローマ法の学説に名を残す同名の法学者と同一人物だとする説もあるが、確かではない。

テルトゥリアヌス
テルトゥリアヌスWikimedia Commons Public domain

当時のカルタゴは、ラテン語を話す西方世界で有数の都市だった(カルタゴ)。キリスト教の文書はそれまでほとんどギリシア語で書かれていたが、北アフリカの教会ではラテン語が使われ、聖書の古いラテン語訳もこの地で生まれた。テルトゥリアヌスは、ラテン語で本格的な著作を書いた最初のキリスト教著述家になる。

30あまりの著作が残る。そのほとんどが論争の文章だ。197年頃の『護教論』は、ローマの総督たちに宛てて、キリスト教徒への迫害の不当さを論じた。キリスト教徒は、ティベリス川が溢れても、ナイル川が溢れなくても、地震や飢饉や疫病が起きても「キリスト教徒をライオンに」と叫ばれる、と彼は書いた。キリスト教徒は皇帝のために祈っている、なのになぜ罪人のように裁かれるのか、と問い、迫害がかえって信者を増やすと論じた。「キリスト教徒の血は種である」という言葉は、この本の結びの一節から生まれた。

テルトゥリアヌスの肖像
テルトゥリアヌスの肖像Wikimedia Commons André Thevet · Public domain

彼の筆が鋭く向かったのは、教会の内側の「異端」だった。神と世界を二つに分け、旧約の神を退けたマルキオンには5巻の反駁書を書いた(マルキオンの正典)。グノーシス派の諸派にも、反論の書を次々と著した。『異端者への抗弁』では、ギリシア哲学こそ異端の母だとして、「アテナイとエルサレムに何の関わりがあるのか。アカデメイアと教会に何の関わりがあるのか」と問うた。

「不合理ゆえに我信ず」という言葉は、テルトゥリアヌスのものとしてよく知られるが、この形で書かれた文は彼の著作に無い。『キリストの肉について』で、神の子が死んだことについて「それは愚かなことであるがゆえに、まったく信じるに値する」、葬られて復活したことについて「それは不可能であるがゆえに確かである」と書いた。神のわざは人間の理屈では測れない、という論法を、後世の人が一言に縮めたものである。

テルトゥリアヌスの残した最大のものは、言葉だった。父と子と聖霊が一つの神であることを論じた『プラクセアス駁論』で、彼は「三位一体(トリニタス)」というラテン語を初めて神学の語として使い、一つの「実体」と三つの「位格(ペルソナ)」という言い方で神を説明した。この語彙は、のちのニケーア公会議以降の論争を経て、西方の教会の正統の教えを形作る土台になる。サクラメントをはじめ、ラテン語のキリスト教の多くの言葉が、彼の筆から広まった。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

彼の倫理は厳しかった。『女性の装いについて』では、女性たちに向かって「あなたは悪魔の門である」とイヴの罪を思い出させ、化粧や染髪、宝石を退けた。『見世物について』では、闘技場や劇場を偶像崇拝の場として禁じ、最後の審判の日に、異教の王や哲学者、詩人や俳優が炎に焼かれるのを見ることこそ、信者にとって最上の見世物だと書いた。妻に宛てた手紙では、自分の死後に再婚しないよう求めている。

その厳しさは、やがて彼を主流の教会から引き離した。207年頃から、彼は小アジアで興ったモンタノス派に共鳴するようになる。モンタノス派は、聖霊が新しい預言者を通して語り続けていると信じ、断食を重んじ、再婚を禁じ、迫害から逃げることを許さず、重い罪を犯した者を教会に戻すことに反対した。テルトゥリアヌスは、罪人を安易に赦す司教たちを激しく攻撃し、教会は霊の人々の集まりであるべきで、司教の数で成り立つものではない、と論じた。セプティミウス・セウェルスの治世の203年にカルタゴで殉教した若い女性ペルペトゥアの記録を編んだのも、彼か彼に近い人物ではないかとされる。

モンタノス派に関わる図版:Acts-2
モンタノス派Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

晩年はさらにモンタノス派からも離れ、自分の名を冠した一派を作ったと、のちにアウグスティヌスは書いている。アウグスティヌスによれば、その「テルトゥリアヌス派」はカルタゴで200年近く続き、彼自身の時代に正統の教会に戻ったという。ヒエロニムスは、テルトゥリアヌスはたいへんな高齢まで生きたと書く。死んだのは220年頃かそれ以降とされる。

半世紀後のカルタゴの司教キプリアヌスは、毎日テルトゥリアヌスの書を読み、それを取りに行かせるとき「師を持ってきなさい」と言ったと、ヒエロニムスは伝える。正統から外れた人であったため、彼は聖人に数えられず、教父と呼ぶことにもためらいがある。それでも、西方のキリスト教の神学の言葉を作った人として、その名は避けて通れない。

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