デキウスの迫害

概要
帝国中の住民に神々への犠牲を命じ、証明書(リベルス)を持たせた。エジプトからその証明書が何十枚も出土している。従った信徒と逃げた信徒をどう扱うかで、教会が割れた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
デキウスAD201年頃–AD251年 · 皇帝本文
キリスト教が生まれてからの200年あまり、ローマ帝国による信徒への迫害は、ときどき、ところどころで起きるものだった。64年のローマの大火のあとネロが信徒を処刑したことはよく知られているが、その後の迫害の多くは、地方の総督が住民の訴えを受けて裁く、という形で散発的に行われた。皇帝の側から帝国全体に向けて、信徒を探し出せという命令が出たことはなかった。そのあいだに教会はひそかに広がり、3世紀の半ばには、都市の住民のなかにかなりの数の信徒がいるようになっていた。
3世紀の帝国は、外と内から揺さぶられていた(三世紀の危機)。北ではゴート人がドナウ川を越えて侵入し、東ではペルシアが国境を脅かす。軍の給料を払うために銀貨の質は落とされ続け、物の値は上がった。248年、皇帝フィリップスはローマの建国千年を盛大に祝ったが、翌249年、ドナウの軍に推された将軍デキウスが兵を挙げ、フィリップスを破って皇帝となった。デキウスは、古いローマの徳を取り戻すことで帝国を立て直せると信じた人だったとされる。同じころ、帝国の各地では疫病が広がり始めていた(キプリアヌスの疫病)。

250年の初め、デキウスは帝国のすべての住民に、神々に犠牲を捧げるよう命じた。勅令の原文は残っていないが、各地の様子から中身はかなり分かる。住民は定められた期限までに、町や村に置かれた役人の委員の前に出て、神々に犠牲を捧げ、供え物の酒を注ぎ、犠牲の肉を食べる。そうすると、確かに犠牲を捧げたことを証す書類(リベッルス)が渡された。神々の怒りを鎮め、帝国の平和を取り戻すための、帝国全体を挙げた祈りの儀式という建前だった。勅令はキリスト教徒を名指ししてはいない。しかし、ほかの神々に犠牲を捧げることを拒む信徒は、この仕組みのもとで、否応なく姿をあらわすことになる。
その証明書の実物が、エジプトの砂の中から40枚あまり見つかっている。パピルスに書かれたその一枚では、ある村の72歳の男が、右の眉に傷があると身元を書き添えたうえで、自分は常に神々に犠牲を捧げてきた、そしていま役人の前で犠牲を捧げ、酒を注ぎ、聖なる肉を食べたので証明してほしい、と申し出ている。その下に役人が、確かに見届けたと書き込み、250年の6月の日付を入れている。証明書の多くは、信徒ではないふつうの住民のものと考えられている。帝国の役所が、辺境の村の老人一人一人にまで、決まった書式の書類を求めていたことが分かる。

キリスト教徒にとって、選択は厳しかった。ローマ司教ファビアヌスは1月に捕らえられて殺され、エルサレムやアンティオキアの司教も獄中で命を落とした。アレクサンドリアの大学者オリゲネスも捕らえられ、拷問を受けた。釈放されたものの、その傷がもとで数年後に亡くなったとされる。しかし、殉教を選んだ者は全体から見ればわずかだった。多くの信徒は役人の前で犠牲を捧げた。犠牲は捧げずに、役人に金を渡して証明書だけを手に入れた者もいた。町を逃れて身を隠した者もいる。北アフリカのカルタゴの司教キプリアヌスは、隠れ家から手紙で教会を指導し続けたが、のちに逃げたことを非難された。
迫害は長くは続かなかった。251年6月、デキウスはドナウ川の下流のアブリットゥスで、ゴート人の軍との戦いに敗れ、息子とともに沼地で死んだ。外敵との戦いで命を落としたローマ皇帝は、これが初めてだった。勅令は自然に効力を失い、身を隠していた信徒たちは町へ戻ってきた。
本当の問題は、そこから始まった。犠牲を捧げてしまった者や、証明書を買った者、つまり「堕ちた者」が、教会に戻りたいと願い出たのである。彼らを受け入れるべきか、拒むべきか。殉教を覚悟して信仰を守り通した「証聖者」の中には、自分の権威で彼らに許しを与える者も現れ、教会の秩序は乱れた。ローマでは、厳格な司祭ノヴァティアヌスが、堕ちた者を教会が許すことはできないと主張し、穏健な立場のコルネリウスが司教に選ばれると、自らも司教を名乗って分派を作った。一方、カルタゴのキプリアヌスは、司教たちの会議を開き、罪の重さに応じて悔い改めの期間を課したうえで、堕ちた者を教会に迎え入れる道を定めた。
この決定は、教会のあり方を大きく変えた。清い者だけが集まる少数の共同体ではなく、弱さを抱えた多くの人々を、司教の権威のもとで罪を悔い改めさせて受け入れる共同体へ。それはのちの告解の制度にもつながっていく。帝国による迫害は、その後もウァレリアヌスの時代と、4世紀初めのディオクレティアヌスの大迫害で繰り返されたが、313年のミラノ勅令で信仰の自由が認められる。デキウスの勅令が求めた帝国の一体性は、半世紀あまりのち、皮肉にも迫害された側の宗教によって、新しい形で実現されていくことになった。