できごと

シトー会の創設

Cîteaux Abbey
AD1098年3月21日
重要度 4
デンマーク=ノルウェーフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民セルジューク朝キエフ・ルーシブワイフ朝キエフ・ルーシペチェネグファーティマ朝サーミ神聖ローマ帝国ヴォルガ・ブルガール東ローマ帝国マクリアルーム・セルジューク朝ポーランドMagyarsポーランド王国ハザールKareliansハンガリー王国スウェーデンIcelandic Commonwealthバルトの諸部族アルメニアEnglandSuomiケルト系の諸王国Leónアランブルゴーニュジョージア王国スコットランドPrussiansフランス王国PomeraniaAD1098年3月21日シトー
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概要

自ら建てたモレーム修道院がゆるんだと、院長ロベールが21人と沼地へ。「戒律を、字の通りに」。白い衣。飾りのない教会。自分で耕す。「祈りと労働」。14年後にベルナールが30人を連れて来て、50年で350の修道院。ヨーロッパの荒地を開き、羊毛と鉄で富んだ。

場所

シトー
47.13°N 5.09°E · フランス

本文

11世紀のヨーロッパの修道院は、豊かになっていた。10世紀に創られたクリュニー修道院(クリュニー修道院の創立)は、王や貴族から多くの土地と寄進を受け、ヨーロッパ各地に千を超える傘下の修道院を持つ大組織になった。修道士たちの一日は、壮麗な教会での長い典礼に費やされ、畑を耕すのは農奴や雇った人びとの仕事だった。6世紀にヌルシアのベネディクトゥスが定めたベネディクトの戒律は、祈りと並んで手の労働を修道士の務めとしていたが、それはいつのまにか形だけのものになっていた。

ブルゴーニュのモレーム修道院の院長ロベールも、こうした流れに疑問を抱いた一人だった。モレームは彼自身が創った修道院だったが、寄進が集まって豊かになるにつれ、修道士たちは清貧の暮らしから離れていった。ロベールは、ベネディクトの戒律を、その字の通りに守る暮らしに戻りたいと考えた。

フィリップ・ポーの墓に描かれたシトー会修道士(シトー修道院)
フィリップ・ポーの墓に描かれたシトー会修道士(シトー修道院)Wikimedia Commons Son of Groucho from Scotland · CC BY 2.0

1098年3月21日、ベネディクトの祝日にあたるこの日、ロベールは二十人ほどの修道士とともにモレームを出て、ディジョンの南の湿地の森に入った。そこはラテン語でキステルキウムと呼ばれる、葦の茂る土地で、のちにフランス語でシトーと呼ばれるようになる。修道士たちは木で粗末な建物を建て、自分たちの手で土地を拓き始めた。

ところが翌年、ロベールは教皇の命令で、モレームの院長に呼び戻される。シトーに残った修道士たちは、アルベリックを院長に選び、ついでイングランド出身のステファヌス・ハーディングが院長となった。暮らしは苦しく、入ってくる修道士も少なく、新しい修道院は消えかけたこともあった。修道士たちは染めていない羊毛の衣を着たため、黒い衣のクリュニーの修道士に対して、「白い修道士」と呼ばれるようになる。

流れを変えたのは、1113年ごろ、ブルゴーニュの貴族の若者ベルナールが、兄弟や親族、友人など三十人ほどを連れてシトーに入ったことである。ベルナールはまもなく、シャンパーニュのクレルヴォーに新しい修道院を開いて院長となる。その熱烈な説教と文章の力で、シトー会は爆発的に広がった。ベルナールが1153年に亡くなるころには、シトー会の修道院は三百五十ほどを数えた。

シトー会は、仕組みでも新しかった。ステファヌスの時代にまとめられた「愛の憲章」は、各地の修道院が同じ戒律を守るよう、すべての院長が毎年シトーに集まる総会を開き、母院の院長が娘の修道院を訪ねて点検することを定めた。各修道院の独立を保ちながら全体の規律を保つこの仕組みは、のちの修道会の手本になった。

暮らしは質素を極めた。教会には色ガラスも、金の飾りも、彫刻もほとんど置かなかった。ベルナールは、クリュニー風の教会の柱頭に彫られた怪物や奇妙な生き物を、祈りの妨げになる無駄だと手厳しく批判している。光と石の比例だけで美しさを生むシトー会の建築は、それ自体が一つの様式になった。

修道士たちは、人の住まない湿地や森を選んで修道院を建て、自ら耕した。手が足りない分は、読み書きを学ばずに労働を担う助修士と呼ばれる人びとが加わった。修道院は遠くの土地に農場を置き、水路を引き、湿地を干拓した。イングランドの修道院は羊を飼って羊毛を大陸へ売り、ほかの地域では鉄の製錬や、ぶどう酒づくりにも優れた。皮肉なことに、勤勉な労働と質素な暮らしは、シトー会に大きな富をもたらしていく。

ベルナールは、修道院の外でもヨーロッパを動かした。テンプル騎士団の会則の作成に関わり、1146年には教皇の求めで第二回十字軍を説いて回った(十字軍の始まりについては十字軍の呼びかけ)。同じころ、サン・ドニ修道院長シュジェールは、光あふれる新しい教会を建てていた(サン・ドニ修道院とゴシックの始まり)。華やかさを神への賛美と考えるか、質素こそが信仰だと考えるか。その対立は、中世の教会の大きな論点の一つだった。

十字軍の呼びかけに関わる図版:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont
十字軍の呼びかけWikimedia Commons Jean Colombe · Public domain

13世紀には、シトー会の修道院は五百を超えた。やがてシトー会もまた豊かになり、規律が緩んだと批判されるようになる。17世紀には、より厳しい暮らしに立ち戻ろうとする改革がフランスのラ・トラップ修道院で起き、トラピストと呼ばれる流れが生まれた。シトーの修道院はフランス革命で解散させられたが、19世紀の末に修道士たちが戻り、いまも祈りと労働の暮らしが続いている。

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