オムリのサマリア建設
概要
北イスラエルの王が丘を買って都を建てた。息子アハブがフェニキアの王女イゼベルを娶り、預言者エリヤと争う。アッシリアの碑文は、この国を「オムリの家」と呼びつづけた。
場所
32.28°N 35.20°E · ヨルダン川西岸
本文
紀元前10世紀の終わり、ソロモンの死後に王国は二つに割れた。南のユダはダビデの家が治め、都はエルサレムに置かれた(ダビデのエルサレム)。北の10部族はイスラエル王国を名乗ったが、王の家が定まらなかった。王が殺され、殺した者が王になり、その者もまた殺される。列王記は、北の王たちの交代を、ほとんど暗殺と反乱の記録として書いている。
オムリは、そうした混乱の中から出てきた軍の指揮官だった。列王記によれば、王エラが家臣ジムリに殺されたとき、オムリは軍を率いてペリシテ人の町を囲んでいた。兵士たちはその場でオムリを王に立てた。オムリは都ティルツァに引き返して囲み、追い詰められたジムリは王宮に火を放って死んだ。王位にあったのは7日だけである。そのあとオムリは、もう一人の王位を争う者ティブニと4年ほど争い、ようやく国をまとめた。

オムリは、新しい都を作ることにした。シェメルという男から、銀2タラントで丘を買い、そこに町を建てた。名は持ち主にちなんでショムロン、ギリシア語でサマリアと呼ばれる。まわりの谷から切り離された見晴らしのよい丘で、守りやすく、海岸と内陸を結ぶ道にも近い。以後150年あまり、サマリアは北イスラエルの都であり続けた。20世紀の発掘では、丘の頂を切り整えて、切石を丁寧に積んだ王宮の跡が見つかっている。
オムリは外交にも力を入れた。息子アハブには、フェニキアの町ティルスの王女イゼベルを迎えた(ヒラムのティルス)。海の交易で栄えるフェニキアと結べば、富が流れ込む。南のユダとも婚姻で結び、東では死海の東のモアブを従えた。モアブの王メシャが残した碑文には、オムリがイスラエルの王で、長いあいだモアブを苦しめた、と刻まれている(メシャ碑)。
サマリアの王宮の石積みは、角をきっちりと四角に切りそろえた切石を、すき間なく組んだものだった。同じ技法はフェニキアの町々にも見られ、ティルスとの結びつきの中で職人が招かれたのだろうと考えられている。考古学者の中には、北イスラエルが本当の意味での国家になったのはオムリの代からで、南のユダより早く、豊かで、強かったと見る人もいる。
聖書は、オムリについて短くしか書かない。12年治め、先立つ誰よりも悪を行った。それだけである。聖書を書いた人びとにとって大事なのは、王が正しく神を拝んだかどうかで、国を強くしたかどうかではなかった。
息子アハブの代に、王国は最も力を持った。紀元前853年、北から迫るアッシリアのシャルマネセル3世に対し、シリアの諸国が連合して立ち向かった(カルカルの戦い)。アッシリア王の碑文は、アハブが戦車2000両と兵1万を出したと記す。連合軍の中で最も多い戦車の数である。サマリアの王宮跡からは、象牙の細工が大量に見つかっている。列王記は、アハブが「象牙の家」を建てたと書く。

だが聖書が語るアハブの姿は、イゼベルとともにバアルの神を拝ませた王であり、預言者エリヤと争った王である(エリヤとカルメル山)。のちにイエフという軍人が反乱を起こし、オムリの家の者を皆殺しにした。王朝は4代、40年あまりで絶えた。
それでも、外の世界はこの国をオムリの名で呼び続けた。アッシリアの碑文は北イスラエルを「オムリの家」と記し、王朝を滅ぼしたイエフでさえ「オムリの子」と呼んでいる。シャルマネセル3世の黒いオベリスクには、ひれ伏して貢ぎ物を差し出すイエフの姿が刻まれた。イスラエルの王を描いた現存する最古の像とされる。

紀元前722年、サマリアはアッシリアに落ち、多くの住民が遠い土地へ移された(イスラエル王国の滅亡)。代わりに別の土地の人びとが連れてこられた(アッシリアの強制移住)。北の10部族の行方は分からなくなり、のちに「失われた10部族」の伝説が生まれる。オムリの丘には、のちにヘロデ大王が町を建て直し、その遺跡はいまもパレスチナのヨルダン川西岸地区に残っている。