できごと

コンスタンツ公会議

Council of Constance
AD1414年11月5日
重要度 5
コンスタンツ公会議に関わる図版:Vaclav Brozik - Hus
Vaclav Brozik - Hus Wikimedia Commons Václav Brožík · Public domain

概要

教皇が三人いた。皇帝ジギスムントが公会議を開かせ、三人とも辞めさせて一人を選んだ。フスは安全通行証を持って来て、焼かれた。「公会議は教皇の上」。ボヘミアが15年燃えた。

場所

コンスタンツ
47.66°N 9.18°E · ドイツ

本文

1414年11月5日、ボーデン湖のほとりの帝国都市コンスタンツで、カトリック教会の公会議が開かれた。そのときヨーロッパには、自分こそ正統だと主張する教皇が3人もいた。公会議は3年半かけて3人ともを退け、新しい教皇を1人選んで、40年近く続いた教会の分裂を終わらせた。その一方で、ボヘミアの神学者ヤン・フスを異端として火あぶりにし、中央ヨーロッパに長い戦乱の火種を残した。

分裂の始まりは1378年にさかのぼる。教皇庁は14世紀の大半を南フランスのアヴィニョンで過ごしていた(教皇のアヴィニョン捕囚)が、1377年にローマへ戻った。翌年、ローマで選ばれた教皇ウルバヌス6世の振る舞いに反発した枢機卿たちは、選挙は民衆の圧力のもとで行われた無効なものだとして、別の教皇を立てた。新しい教皇はアヴィニョンに戻り、ローマとアヴィニョンに2人の教皇が並び立った。「教会大分裂(大シスマ)」である。ヨーロッパの国々は、フランスとその友好国がアヴィニョンを、イングランドや神聖ローマ帝国の多くがローマを支持して、真っ二つに割れた。互いに相手を破門し、それぞれが枢機卿を任命し、税を取り立てた。

トリエント公会議(NRコシャン画)
トリエント公会議(NRコシャン画)Wikimedia Commons Noël Robert Cochin · Public domain

1409年、両方の側の枢機卿たちがイタリアのピサに集まって公会議を開き、2人の教皇をともに廃位して新しい教皇を選んだ。だが廃位された2人はどちらも退かず、結果として教皇は3人に増えてしまった。ピサの側の2代目の教皇が、ヨハネス23世である。若いころ海賊をしていたという噂まであった、世俗の色の濃い人物だった。

この行き詰まりを破ろうとしたのが、ハンガリー王で、1411年にドイツ王(ローマ王)にも選ばれたルクセンブルク家のジギスムントだった。彼はヨハネス23世に圧力をかけて、帝国の都市コンスタンツで公会議を開かせた。各地から枢機卿、司教、修道院長、神学者、諸侯の使節が集まり、そのお供や商人、職人、芸人まで含めて、小さな町には数万人が押し寄せたと伝えられる。採決は、従来のように一人一票ではなく、イタリア、フランス、ドイツ、イングランドなどの「国民団」ごとに一票を投じる方式がとられた。数の多いイタリアの聖職者がヨハネス23世を支えて押し切ることを防ぐためだった。

コンスタンツ公会議に臨むローマ王ジギスムント、その妃バルバラ、娘エリーザベト
コンスタンツ公会議に臨むローマ王ジギスムント、その妃バルバラ、娘エリーザベトWikimedia Commons Meister der Chronik des Konzils von Konstanz · Public domain

ヨハネス23世は、自分だけが残る形で決着がつくと期待していた。だが公会議が3人全員の退位を求める流れになると、1415年3月、彼は従者に変装して夜のうちにコンスタンツを逃げ出した。公会議を解散させるつもりだった。しかし公会議は崩れなかった。4月6日、公会議は「ハエク・サンクタ(この聖なる会議は)」と呼ばれる教令を出し、公会議はキリストから直接権威を受けており、教皇を含むすべての者は、信仰と分裂の解消と教会の改革に関して、公会議に従わなければならない、と宣言した。捕えられたヨハネス23世は、5月、数々の罪状を挙げられて廃位された。

ローマの側の教皇グレゴリウス12世は、7月、自ら公会議を正式に招集し直すという形を取って名誉を守ったうえで、退位に応じた。最後まで粘ったのはアヴィニョンの側のベネディクトゥス13世で、彼は支持者をほとんど失ったあとも退位を拒み続け、1417年に公会議によって廃位された。彼はスペインの海辺の岩山に建つペニスコラの城にこもり、1423年に死ぬまで自分こそ教皇だと言い張った。1417年11月11日、公会議はローマの名門コロンナ家出身の枢機卿を選び、マルティヌス5世が即位した。分裂はこうして終わった。

コンスタンツ公会議で教皇と議論する司教たち
コンスタンツ公会議で教皇と議論する司教たちWikimedia Commons Public domain

公会議が裁いたのは教皇だけではなかった。プラハ大学の神学者ヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフの思想に影響を受け、教会の富と腐敗を激しく批判していた。教会の本当の頭はキリストであって教皇ではない、聖書に反する命令には従う必要はない、と説き、チェコ語で説教して、民衆の圧倒的な支持を集めていた。破門されていたフスは、ジギスムントから身の安全を保障する通行証を受け取って、自分の考えを弁明するためにコンスタンツへやって来た。

ところが到着して1か月もたたないうちに、フスは捕えられ、牢に入れられた。ジギスムントは抗議したが、異端の者に与えた約束は守る必要がないという議論に押され、最後はフスを見捨てた。1415年6月の審問で、フスは、自分の誤りを聖書によって示してくれれば撤回する、と繰り返したが、公会議は無条件の撤回を求めた。フスは拒んだ。

7月6日、大聖堂で異端の判決が言い渡された。司祭の衣をはぎ取られたフスは、悪魔の絵を描いた紙の帽子をかぶせられ、町の外の野原へ連れて行かれて、生きたまま焼かれた。灰はライン川に流された。フスという名はチェコ語で鵞鳥を意味する。彼は死に際に、今日あなたがたは鵞鳥を焼くが、100年後には焼くことのできない白鳥が現れるだろう、と言ったと伝えられる。後世の伝説だが、100年余りのちのマルティン・ルターは自分をこの白鳥になぞらえた。翌1416年には、フスの友人ヒエロニムスも同じ場所で焼かれた。

フスの処刑はボヘミアを激しく怒らせた。1419年、プラハで改革派の市民が市庁舎の窓から市の役人たちを投げ落とした事件をきっかけに、フス派戦争が始まった。フス派は、信徒にも聖職者と同じようにぶどう酒の聖杯を許すことを求め、聖杯を旗印にして戦った。荷車をつないで砦とする戦法で、ジギスムントが送り込んだ何度もの十字軍を打ち破った。戦いは1430年代まで続いた。

公会議は教皇の上に立つ、という考えは「公会議主義」と呼ばれ、コンスタンツで最高潮に達した。公会議は定期的に開かれるべきだとする教令も出され、その後バーゼルでも公会議が開かれた。しかし教皇たちは力を取り戻し、1460年、教皇ピウス2世は、教皇の決定に不服を唱えて公会議に訴えることを禁じた。教会の改革は先送りにされ、その積み残しは、ルターの95か条の論題に始まる宗教改革(物語「宗教改革と科学革命」)で一気に噴き出すことになる。

95か条の論題に関わる図版:Luther 95 Thesen
95か条の論題Wikimedia Commons Martin Luther · Public domain

コンスタンツの港には、公会議の時代に倉庫として建てられた大きな商館が残り、1417年の教皇選挙はここで行われたと伝えられる。港の入口には1993年、高さ9メートルほどの回転する女性の像が建てられた。両手に、裸の教皇と皇帝の小さな像を載せている。公会議に集まった男たちを風刺した作品で、建てられた当時は町で賛否が分かれたが、今では町の名物になっている。1999年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、フスが受けた残酷な死に深い遺憾の意を表した。火刑から600年近くが過ぎていた。

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