ユリアヌスの異教復興
概要
キリスト教徒として育てられた皇帝が、即位すると古い神々の祭祀を戻した。2年後にペルシア遠征で死に、以後の皇帝は全員キリスト教徒になる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
ユリアヌスAD331年–AD363年6月26日 · 皇帝本文
ユリアヌスは331年ごろ、コンスタンティノープルで生まれた。父はコンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスで、皇帝の一族に連なる身だった。337年に大帝が死ぬと(コンスタンティヌスの洗礼と死)、都で兵士の反乱という形をとった粛清が起こり、父も、年長の兄も、おじやいとこたちも殺された。生き残ったのは、幼すぎた6歳ほどのユリアヌスと、病弱で長くないと見られた異母兄ガッルスだけだった。手を下したのは、帝位を継いだいとこのコンスタンティウス2世だと、ユリアヌス自身はのちに書いている。
二人はキリスト教徒として育てられた。ユリアヌスは聖書を学び、教会で朗読もした。だが最初の家庭教師、宦官のマルドニオスが読ませたのはホメロスで、少年はそこに描かれた神々と英雄の世界に惹かれていった。のちにカッパドキアの山奥の領地マケッルムに6年ほど閉じこめられ、その後はニコメディア、ペルガモン、エフェソスで学ぶことを許される。そこで新プラトン主義の哲学者たち、とりわけ秘儀によって神々と交わることを説くマクシモスに出会い、20歳前後で密かに古い神々の側に移った。皇帝の目を恐れて、その後10年近く、表向きはキリスト教徒として振る舞い続けた。

354年、副帝になっていたガッルスが処刑される。ユリアヌスも疑われて宮廷に呼ばれたが、皇后エウセビアのとりなしで命を拾い、アテナイで学ぶことを許された。同じころアテナイには、のちに教父となるバシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスも学んでいた。翌355年、ユリアヌスは突然副帝に任じられ、ゲルマン人に荒らされたガリアへ送られた。書物しか知らない24歳の若者に期待した者は少なかった。
だがユリアヌスは戦場で才能を見せた。357年、アルゲントラトゥム(いまのストラスブール)でアラマンニ人の大軍を破り、ライン川の守りを立て直した。税の取り立てを軽くし、兵の信頼を集めた。360年、皇帝が東方のペルシア戦のためにガリアの精鋭を引き抜こうとすると、兵たちはルテティア(いまのパリ)でユリアヌスを正帝に担ぎ上げた。内戦が避けられないと思われたが、翌361年11月、東から迎え撃とうとしたコンスタンティウス2世が病で急死し、ユリアヌスは戦わずに単独の皇帝になった。

コンスタンティノープルに入ったユリアヌスは、隠していた信仰を明らかにした。閉ざされていた神殿を開き、取り上げられた財産を返させ、動物の犠牲を復活させた。キリスト教徒を処刑するような迫害はしなかった。代わりに、教会と聖職者に与えられていた特権と補助を取り上げ、追放されていた各派の司教を一斉に呼び戻した。教義をめぐって争っていた司教たちが戻れば、互いに争って力を失うと計算したのだと、同時代の歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは書いている。
362年には、教師は自分が信じていないことを教えてはならない、という法を出した。ホメロスやヘシオドスの神々を信じないキリスト教徒は、古典を教える教師の職から事実上締め出された。アンミアヌスは異教徒だったが、この法だけは忘れられるべき過酷なものだと批判している。

ユリアヌスは、古い神々の祭司たちをキリスト教の教会にならって組織し直そうとした。祭司は身を慎み、劇場に通わず、貧しい者や旅人を助けよ、と書き送っている。不敬なガリラヤ人(キリスト教徒をこう呼んだ)は自分たちの貧者ばかりか我々の貧者まで養っている、と嘆いた手紙も残る。敵の強さが慈善の組織にあると見抜いたうえでの改革だったが、人々は動かなかった。
エルサレムの神殿を再建する計画にも手をつけた。エルサレム神殿の破壊から300年近く廃墟だった場所で工事が始まったが、地震と火災が起きて中断し、皇帝の死とともに立ち消えになった。滞在したシリアのアンティオキアでは、キリスト教徒の多い市民に哲学者風の髭と質素な暮らしを笑われ、ユリアヌスは自分の髭を自嘲する風刺文『髭嫌い』を書いて応じた。

363年3月、ユリアヌスは大軍を率いてペルシアへ向かった。ティグリス川沿いの都クテシフォンの前まで迫りながら攻めきれず、退却の途中の6月26日、乱戦の中で脇腹に槍を受けて死んだ。31歳か32歳だった。槍を投げたのが敵か味方かは、当時から噂が分かれた。死に際に「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」と言ったという話は、5世紀の教会史家が伝えたもので、後世の創作とみられている。
後を継いだヨウィアヌスはキリスト教徒で、軍を救うためにペルシアに領土を譲って講和した。以後、ローマの皇帝に異教徒が立つことはなく、テオドシウス1世の時代にはキリスト教がただ一つの公認の宗教になる(キリスト教の国教化)。教会はユリアヌスを「背教者」と呼んで記憶した。一方、近代のヨーロッパでは、寛容と古典の文化のために闘った知識人の皇帝として、啓蒙思想家たちに好まれた。単独の皇帝としてわずか1年7か月あまりを治めた人の評価は、語る者の立場によって大きく揺れ続けている。