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Person / 人

イグナティウス・デ・ロヨラ

Ignatius of Loyola
AD1491年頃 – AD1556年7月31日(享年65・推定)
イエズス会重要度 5

概要

バスクの小貴族。宮廷と軍で、決闘と女と博打の日々を送った。1521年、パンプローナの城でフランス軍の砲弾に足を砕かれ、療養中に読む本がキリスト伝と聖人伝しかなかった。マンレサの洞窟で1年、そこから『霊操』が生まれた。33歳で子供に混じってラテン語を学び直し、パリ大学へ。1540年、イエズス会。ローマで16年、総会長として、世界に散った会員に手紙を書き続けた(7000通が残る)。

関わったできごと(2)

イエズス会の創立AD1540年9月27日 · 創立したトレント公会議AD1545年12月13日 · 会が支えた

本文

1491年頃、バスク地方ギプスコアのアスペイティア、ロヨラ城。イニゴ・ロペス・デ・ロヨラ。13人兄弟の末子。父は小貴族。

7歳で母を失った。16歳、カスティーリャの財務官の家に小姓として送られた。宮廷の作法、剣、ダンス、そして「女と、賭博と、剣の争い」(彼自身の回想の言葉)。1515年、兄と共に、夜の乱闘で告発された記録がある(聖職者の資格を主張して、俗界の裁判を逃れようとした)。

1521年5月20日、パンプローナ。ナバラをめぐるフランスとスペインの戦い。守備側は圧倒的に不利で、降伏の議論が出た。イニゴが反対し、抵抗を続けさせた。砲弾が両脚を裂いた。

フランス軍は敵ながら彼を丁重に扱い、担架でロヨラ城へ送った。医師が骨を接いだが、右膝の下に骨が突き出た。宮廷でタイツを穿けない。彼は、麻酔なしで、骨を鋸で切らせ、脚を引き伸ばす器械にかけさせた。「肉屋のような治療」と回想に書いている。それでも、片脚は短いままだった。

読む本。城には騎士道物語がなく、『キリストの生涯』(ルドルフ・ド・サクソニア)と『黄金伝説』しかなかった。

識別。彼は、二種類の空想をした。(1)宮廷に戻り、ある貴婦人(回想では名を伏せている。おそらく王女)に仕える。(2)フランチェスコやドミニコのように、裸足でエルサレムへ行く。どちらの空想も、その最中は楽しい。しかし、(1)の後は乾いて不満が残り、(2)の後は満たされて慰めが続く。

「これが、彼が神の事柄について得た、最初の推論であった」(『自叙伝』。彼は自分のことを三人称で語った)。

1522年3月、モンセラート。3日かけて総告解し、剣と短剣を黒い聖母の祭壇に掛け、乞食に自分の服を与え、粗い袋の衣を着た。

マンレサ。近くの町。乞食として暮らし、洞窟で祈った。11か月。断食で歯が抜けかけ、髪と爪を伸ばし放題にした(外見を捨てるため)。細かい罪への強迫(スクルポリ)に苦しみ、自殺を考えた。カルドネル川のほとりで、ある日、悟りに近い経験をした。「そのとき理解し、知ったことは非常に多く、生涯に受けた全ての助けを合わせても、それに及ばない」。

そこから『霊操』の草稿が生まれた。彼は自分の心の動きを、日々、記録していた。

1523年、エルサレム。徒歩と乞食で、バルセロナ、ローマ、ヴェネツィア、キプロス。聖地に着き、そこに残って人を助けたいと申し出た。フランシスコ会の管区長が「トルコに捕らえられ、身代金の問題を起こす」と拒み、破門の権限をちらつかせた。彼は従った。

帰路の船で、彼は決めた。「人を助けるためには、学ばなければならない」。33歳。

バルセロナで、子供に混じってラテン語文法。アルカラ大学(1526年)とサラマンカ(1527年)で学びながら、街で人々に霊的な指導をした。無学の平信徒がそれをすることは、当時、異端の疑いを招いた。彼は2度、異端審問所に拘束された(それぞれ数週間。教えの誤りは見つからなかったが、「学位を得るまで、罪の区別を教えてはならない」と命じられた)。

1528年、パリ大学。37歳。7年。モンテギュ学寮、次いでサント・バルブ学寮。学費を、フランドルとイギリスの商人から乞うて集めた(夏休みに乞食の旅をした)。

同室者。ピエール・ファーヴル(サヴォワの羊飼いの子。繊細で、良心の呵責に苦しんでいた)。フランシスコ・ザビエル(ナバラの城主の子。走り高跳びの記録を持ち、教授職を望んでいた。イニゴを軽蔑した)。

イニゴは、彼らに『霊操』を与えた。ファーヴルは1534年に、ザビエルは同じ頃に、変わった。

1534年8月15日、モンマルトル。7人(イニゴ、ファーヴル、ザビエル、ライネス、サルメロン、ボバディリャ、ロドリゲス)。ファーヴル(一人だけ司祭だった)がミサを立て、誓願を立てた。

1537年、ヴェネツィア。エルサレム行きの船を1年待った(トルコとの戦争で出なかった)。イニゴはこの年に司祭になった。彼らは、次善として、教皇の指示に従うことにした。

1539年、会の形を議論した。1540年9月27日、認可。翌年4月、総会長に選ばれた(彼は辞退し、二度目の選挙で受けた)。

以後16年、ローマを出なかった。ローマの本部で、世界に散った会員に手紙を書いた(残っているのは6800通以上。当時の誰よりも多い書簡)。『会憲』を書いた。ローマで、娼婦のための家(マルタの家)と、孤児院と、ユダヤ人からの改宗者の家を作った。

1556年7月31日、死んだ。65歳。前日、秘書に「明日、私は死ぬだろうから、教皇の祝福を求めてほしい」と言い、秘書は急ぎでないと考えて先延ばしにした。翌朝、彼は一人で死んでいた。

死んだとき、会員1000人、9つの管区、35の学校。1622年、列聖。

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