ウルフィラのゴート語聖書
概要
ゴート人の司教が、ギリシア文字を元に文字を作り、聖書を訳した。「列王記」は好戦的な民には毒だと訳さなかった。ゴート人はこれでアリウス派になり、ローマの正統と一世紀半ずれたまま帝国に入ってくる。
場所
43.22°N 25.61°E · ブルガリア・ヴェリコ・タルノヴォ近郊
本文
3世紀の半ば、ドナウ川の北に住んでいたゴート人は、たびたびローマ帝国の領内に攻め込み、黒海を渡って小アジアまで荒らした。264年ごろの襲撃では、内陸のカッパドキアの村から、多くのキリスト教徒が捕虜として連れ去られた。その中に、のちにウルフィラと呼ばれる人の祖父母がいた。ウルフィラは4世紀の初め、310年ごろにドナウの北のゴート人の地で生まれた。名はゴート語で「小さな狼」を意味する。捕虜の子孫として育ちながら、ゴート語とギリシア語とラテン語を身につけたと伝えられる。
そのころ帝国では、キリスト教をめぐる大きな論争が起きていた。アレクサンドリアの司祭アリウスが、神の子キリストは父なる神に造られたもので、父と同じではないと説いたのである。325年のニケーア公会議は、子は父と同じ本質を持つと定めてアリウスの説を退けたが、論争は終わらなかった。皇帝コンスタンティヌス1世は晩年アリウス派に近い司教たちを重んじ、死の床で洗礼を授けたのも、アリウス派に近いニコメディアのエウセビオスだった(コンスタンティヌスの洗礼と死)。その子のコンスタンティウス2世も、父と子は「似ている」とする穏やかな折衷の立場を支持した。

341年ごろ、30歳ほどのウルフィラは、帝国を訪れた使節の一員として東方に来たときに、このエウセビオスから「ゴート人の地のキリスト教徒の司教」に叙階された。叙階の場所は、アンティオキアともコンスタンティノープルとも言われる。ウルフィラはドナウの北に戻り、7年ほど布教したが、ゴート人の有力者がキリスト教徒を迫害しはじめた。348年ごろ、ウルフィラは信徒を連れてドナウを渡り、帝国の中に移った。皇帝は彼らを、いまのブルガリア北部のニコポリス・アド・イストルムの近くに住まわせた。皇帝はウルフィラを「われらの時代のモーセ」と呼んだと伝えられる。民を率いて川を渡ったからである。
ゴート語には、聖書を書き記せるような文字が無かった。ルーン文字と呼ばれる刻み文字はあったが、まじないや短い銘に使うものだった。ウルフィラはギリシア文字をもとに、足りない音にはラテン文字やルーン文字の形も借りて、ゴート語を書くための文字を作った。そしてその文字で、聖書をギリシア語からゴート語に訳した。神や罪や救いといった、ゴート語に無い考えを表す言葉も、一つずつ工夫しなければならなかった。

5世紀の教会史家フィロストルギオスによれば、ウルフィラは旧約聖書の列王記だけは訳さなかった。戦争の話ばかりで、戦いを好むゴート人をさらに戦いに駆り立てることになるから、というのである。この話は、ウルフィラが自分の民をどう見ていたかを伝える逸話として知られているが、確かめる手立ては無い。
ウルフィラは帝国の宗教会議にも出て、父と子は似ているとする立場を支持し続けた。383年ごろ、皇帝に招かれたコンスタンティノープルで世を去ったとされる。そのころ帝国の方針はすでに変わっていた。皇帝テオドシウスは380年にニカイアの信仰を帝国の正統と定め、翌年の会議でアリウス派は異端とされた。
一方、ゴート人の多くがキリスト教を受け入れたのは、ウルフィラの晩年のことである。376年、東から来たフン人に追われたゴート人が大挙してドナウを渡り、帝国に保護を求めた。そのころの皇帝ヴァレンスがアリウス派に近い立場だったこともあって、ゴート人は、ウルフィラの訳した聖書とともに、帝国の正統とは違う信仰を受け入れることになった。2年後、そのゴート人が皇帝ヴァレンスを戦場で死なせる(ハドリアノポリスの戦い)。

ゴート語の聖書は、ゴート人から、ヴァンダル人、ブルグント人、ランゴバルド人など、ほかのゲルマン人にも広まった。5世紀から6世紀にかけて帝国の西半分に建てられたゲルマン人の王国は、多くがアリウス派で、王と兵は支配する土地のローマ系の住民とは信仰が違った。北アフリカのヴァンダル王国のように、カトリックの司教を迫害した国もある。逆に、異教からいきなりカトリックに改宗したフランク王国のクローヴィスは(クローヴィスの改宗)、ローマ系の住民と教会の支持を得て勢力を広げた。西ゴート王国がカトリックに改めたのは589年で(西ゴートのカトリック改宗)、ウルフィラの叙階から250年近くたっていた。
ウルフィラの訳した聖書は、ほとんどが失われた。最もよく残っているのが、6世紀の初めのイタリアで、テオドリック大王が東ゴート王国を治めていたころに作られた豪華な写本である。紫に染めた羊皮紙に、銀と金のインクで福音書が書かれ、「銀文字写本」と呼ばれる。もとは三百枚を超えていたとみられるが、残るのは百八十枚あまりで、いまはスウェーデンのウプサラの大学の図書館にある。まとまった長さで残るゲルマン系の言葉の文章としては最も古く、英語やドイツ語の古い姿を調べるうえで欠かせない資料になっている。