できごと

ナントの勅令

Edict of Nantes
AD1598年4月13日
重要度 5
ナントの勅令に関わる図版:Edit de nantes
Edit de nantes Wikimedia Commons Henry IV of France . · Public domain

概要

プロテスタントからカトリックに改宗した王が、プロテスタントに信仰と礼拝と武装した都市を認めた。36年の宗教戦争を止めた。「パリはミサに値する」。87年後、孫がこれを取り消して、20万人が国を出る。

場所

ナント
47.22°N -1.55°E · フランス

本文

1562年に始まったフランスの宗教戦争は、30年を過ぎても終わる気配がなかった。カトリックとプロテスタント(ユグノー)の戦いに、大貴族の権力争いとスペインの介入が絡み、和議は結ばれるたびに破られた。1572年のサン・バルテルミの虐殺は、両派の不信を決定的なものにした。この長い内乱を終わらせたのが、ユグノーとして育ち、改宗を繰り返し、最後にフランス王となった一人の男、ナヴァル王アンリ、のちのアンリ4世である。

アンリは1553年、ピレネー山麓の小王国ナヴァルの女王で熱心なカルヴァン派だったジャンヌ・ダルブレの子として生まれ、プロテスタントとして育てられた。サン・バルテルミの夜、命と引き換えにカトリックへの改宗を強いられ、数年のあいだ宮廷に留め置かれたのち、1576年に脱出してプロテスタントに戻り、ユグノーの軍を率いた。

フランス王アンリ4世(フランス・プールビュス2世画)
フランス王アンリ4世(フランス・プールビュス2世画)Wikimedia Commons Frans Pourbus the Younger · Public domain

1589年8月、国王アンリ3世がドミニコ会の修道士ジャック・クレマンに刺されて死んだ。ヴァロワ家の男系が絶え、王位継承の筆頭はブルボン家のアンリだった。だがカトリック強硬派の同盟(リーグ)は、異端の王を認めないと宣言した。パリは門を閉ざし、スペインの後押しを受けて抵抗した。アンリは戦場では勝ちながら、首都を取れなかった。1590年の包囲では、パリの市民が飢えに苦しみながらも降伏しなかった。

1593年7月25日、アンリはパリ北郊のサン・ドニ修道院で、カトリックへの改宗を正式に誓った。パリはミサに値する、という有名な言葉は彼が言ったものとされるが、確かな記録はなく、後世の作り話と考えられている。ただ、そう言われても仕方のないほど、改宗は政治的な決断だった。効果は大きかった。翌1594年3月、パリは門を開き、王は戦わずして入城した。1595年には教皇クレメンス8世が赦免を与え、リーグの貴族たちも次々と金と地位と引き換えに王に従った。

ナントのブルターニュ公城、中庭
ナントのブルターニュ公城、中庭Wikimedia Commons Jean-Pierre Dalbéra from Paris, France · Public domain

1598年春、王は最後までリーグ側に残っていたブルターニュのメルクール公を降伏させるため、西へ軍を進めた。メルクール公が屈すると、王はブルターニュの港町ナントに入り、そこで4月13日付の勅令に署名した。翌5月にはスペインとのヴェルヴァンの和約が結ばれ、内外の戦いがそろって終わることになる。

ナントの勅令は、一枚の文書ではない。公開された92か条の本文に、56か条の秘密の条項と、王の名による2通の勅書が付いていた。まず、ユグノーには良心の自由が認められた。信じることを理由に迫害されることはない。礼拝の自由は、場所を限って認められた。前年までに礼拝が行われていた所、地方の裁判管区ごとに定められた2か所、そして高い裁判権を持つ貴族の城館である。パリとその周囲およそ20キロの範囲、そして王の宮廷のある所では、礼拝は禁じられた。ユグノーはあらゆる公職に就くことができ、大学や学校、病院に入る権利を保障された。裁判では、高等法院の中に、カトリックとプロテスタントの裁判官をそろえた特別の法廷が設けられた。

ナントのポムレー回廊
ナントのポムレー回廊Wikimedia Commons Velvet · Public domain

もっとも異例だったのは、勅書で認められた「安全保障地」である。ラ・ロシェル、モントーバン、ソミュールなど百数十の町や砦に、ユグノーが自分たちの守備隊を置くことを許され、その費用は王が負担した。期限はまず8年とされた。王国の中に、武装した別の勢力の拠点を公認したことになる。のちに「国家の中の国家」と批判されるのはこの点だった。

勅令は、寛容の理想から生まれたものではなかった。カトリックは王国の宗教であり続け、ユグノーの地域でもカトリックの礼拝は復活させられた。双方が力で相手を滅ぼせないと悟ったうえでの、苦い妥協だった。カトリックの側の抵抗は強かった。パリ高等法院は勅令の登録を渋り、1599年2月、王は自ら高等法院の代表を呼び寄せて、自分は王として命じているのだと迫り、ようやく登録させた。ルーアンの高等法院は1609年まで登録を拒んだ。教皇クレメンス8世は、良心の自由を認めたこの勅令を、自分を十字架にかけるものだと嘆いたと伝えられる。

1610年5月14日、アンリ4世はパリの狭い通りで馬車が立ち往生したところを、カトリックの狂信者ラヴァイヤックに刺されて死んだ。勅令はなお生きていたが、王権にとって、武装した拠点を持つユグノーは扱いにくい存在だった。息子ルイ13世の宰相リシュリューは、ユグノー最大の拠点ラ・ロシェルを1年あまり包囲して屈服させ(ラ・ロシェルの包囲)、1629年のアレスの和議で、安全保障地と軍事上の特権を取り上げた。それでも信仰と礼拝の自由は残された。

ラ・ロシェルの包囲に関わる図版:Siege of La Rochelle 1881 Henri Motte
ラ・ロシェルの包囲Wikimedia Commons Henri-Paul Motte · Public domain

しかし孫のルイ14世の時代、一つの王、一つの法、一つの信仰を求める空気が強まった。1680年代には、竜騎兵をユグノーの家に宿泊させ、乱暴の限りを尽くさせて改宗に追い込む「竜騎兵による迫害(ドラゴナード)」が各地で行われた。大量の改宗の報告を受けた王は、もはやユグノーはほとんどいないとして、1685年10月18日、フォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を廃止した。牧師は国外追放とされたが、信徒が国を出ることは禁じられた。

それでも、多くのユグノーが国境を越えて逃れた。その数は15万から20万と推定される。オランダ、イングランド、スイス、ドイツの諸邦、さらに南アフリカや北アメリカへ。ブランデンブルク選帝侯は、廃止のすぐあとにポツダム勅令を出して彼らを招き、ベルリンには一時、市民の数分の一を占めるほどのフランス人の共同体ができた。19世紀の作家テオドール・フォンターネもその子孫である。時計や絹織物、金融の技術を持った人々の流出は、フランスの経済に打撃を与え、受け入れた国々を豊かにした、と長く語られてきた。その影響の大きさについては研究者の間で議論があるが、フランスが自らの臣民を追い出したことに変わりはない。

ユグノーが法的な地位を回復するのは、1787年、ルイ16世の寛容令によってである。2年後の1789年、人権宣言の第10条は、何人もその意見について、たとえ宗教上の意見であっても、それが法の定める公の秩序を乱さないかぎり、不安を抱かされてはならない、と定めた。ナントでの妥協から191年、宗教の違いを理由に人を罰しないという原則は、王の恩恵ではなく、人の権利として書き記された。

動画(1)

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