ベーダ『イングランド教会史』

概要
ノーサンブリアの修道士が、ローマの来襲からその年まで、5巻。「アングル人の教会史」。イングランドが一つの民だと最初に書いた本。年をキリスト生誕から数えた。「AD」が広まったのは彼から。生涯のほとんどを修道院で過ごした。死ぬ日までヨハネ福音書を訳していた。
場所
54.98°N -1.47°E · イギリス
関わった人(1)
ベーダAD672年–AD735年5月26日 · 著者本文
7世紀のブリテン島には、まだイングランドという国は無かった。ローマ軍が去ったあと、5世紀ごろから大陸のアングル人、サクソン人、ジュート人が海を渡って移り住み(アングロ・サクソンのブリテン移住)、島の東と南にいくつもの王国を作った。ノーサンブリア、マーシア、ウェセックス、ケント、イースト・アングリアなどである。王国どうしは争いを繰り返し、言葉も少しずつ違っていた。彼らはもとは異教の神々を信じていたが、6世紀の末からキリスト教が伝わり、修道院が建てられ、ラテン語の読み書きが根づきはじめた。
ノーサンブリアの修道士ベーダは、672年か673年ごろ、ウェアマスの修道院の領地に生まれた。7歳のとき、親族に連れられて修道院長ベネディクト・ビスコップに預けられ、のちに近くに建てられたジャロウの修道院に移った。ビスコップはローマへ何度も旅をして大量の写本を持ち帰っており、ジャロウとウェアマスの図書室は、当時の西ヨーロッパでも指折りの蔵書を持っていた。ベーダはそこで一生を過ごし、聖書の注解、文法、詩の韻律、自然、暦の計算などについて、40をこえる著作を書いた。修道院の外へ出たことはごくわずかで、リンディスファーンやヨークを訪ねたことが知られている程度である。
731年、59歳になったベーダは、5巻からなる『アングル人の教会史』を書き上げた。ローマ人がブリテン島に来たころから書き起こし、キリスト教が島に伝わって根づいていく歩みを、その年まで語った本である。彼は書き上げた原稿をノーサンブリアの王ケオルウルフに献じた。序文では、王が以前にこの原稿を読んで意見を寄せてくれたことに礼を述べている。
ベーダの書き方には、当時としては珍しい特徴があった。序文で、どの話を誰から聞いたのか、どこの修道院の記録や伝承に拠ったのかを、一人ずつ名を挙げて示したのである。カンタベリーの修道院長は南部の教会の歴史を教えてくれた。ロンドンの司祭はローマへ行って教皇の書簡の写しを持ち帰ってくれた。自分で確かめられないことは、伝えられているとして書いた。書簡や公会議の記録はそのまま本文に引いた。後世の歴史家が、ベーダをイングランドの歴史学の父と呼ぶのはこのためである。

第1巻は、ブリテン島の地理から始まり、カエサルとクラウディウスの遠征、ローマの撤退、449年ごろに始まるゲルマン人の到来を語る。その中には、ローマの市場で売られていた金髪の少年たちを見た修道士グレゴリウス、のちの教皇グレゴリウス1世が、どこの民かと尋ね、アングル人だと聞いて、アングリではなくアンゲリ、天使だと言ったという話がある。この話はベーダより前の伝記にも見え、伝承として語られている。教皇になったグレゴリウスは、597年に修道士アウグスティヌスをケントへ送った(アウグスティヌスのケント布教)。
第2巻でベーダが描く場面のなかで、とりわけよく知られているのが、ノーサンブリアの王エドウィンがキリスト教を受け入れるかどうか家臣と相談した席での、ある家臣の言葉である。王よ、人の一生は、冬の夜、火が燃える広間に、一羽の雀が一方の戸口から飛び込んで、すぐにもう一方の戸口から出ていくようなものです。中にいるわずかなあいだは嵐を逃れられますが、その前とその後のことは何も分かりません。新しい教えがそれを教えてくれるなら、従うべきです。ベーダの筆による言葉だが、異教からキリスト教へ移る時代の人々の心をよく伝えている。

第3巻と第4巻は、アイルランドから来た修道士エイダンがリンディスファーンに開いた修道院と、ローマから伝わった教会とのあいだの違いを語る。両者は復活祭をいつ祝うかで対立しており、664年のウィットビー教会会議で、ノーサンブリアの王はローマの方式を選んだ。第4巻には、ウィトビーの修道院で牛の世話をしていた読み書きのできない男ケドモンが、夢のなかで神を讃える歌を授かったという話も収められている。ケドモンの歌は、名前の分かる英語の詩として最も古いものとされる。
ベーダの本は、後の世に二つの大きなものを残した。一つは年の数え方である。キリストの生まれた年から年を数えるやり方は、6世紀にディオニュシウス・エクシグウスが復活祭の日付を計算する表のために考えたものだった。ベーダは暦の計算の著作でこれを用い、『教会史』では歴史の出来事を一貫してこの紀年で書いた。キリストの生まれる前の年を逆向きに数える書き方も、早い例の一つがこの本に見える。『教会史』は西ヨーロッパの修道院で広く写され、読まれた。カール大帝の宮廷で活躍したノーサンブリア出身の学者アルクィンらを通じて大陸にもこの紀年が広まり、やがて西ヨーロッパの標準になった。

もう一つは、イングランドという一つのまとまりの考えである。ベーダはアングル人、サクソン人、ジュート人を区別して書きながら、彼らをまとめて「アングル人の民」と呼び、その教会を一つの教会として描いた。島にまだ七つほどの王国が並び立っていた時代に、彼は一つの民の歴史を書いたのである。9世紀の末、ヴァイキングと戦ったアルフレッド大王の時代には、この本は古英語に訳され、ラテン語を読めない人々にも届くようになった。
ベーダの最期は、弟子の一人が書いた手紙で知られている。735年の春、病に伏したベーダは、ヨハネによる福音書を英語に訳す仕事を、弟子に口述させて続けていた。5月26日、キリストの昇天祭の前日の夕方、筆記していた少年が、あと一文だけ残っていますと言った。書き終えると、ベーダは、よろしい、終わった、と答えた。手もとの小箱から胡椒と布と香を取り出させて修道士たちに分け、庵の床に座って、父と子と聖霊に栄光あれ、と唱えながら息を引き取ったという。この英訳は残っていない。
ベーダの遺骨は、11世紀のはじめにダラムの修道士によって持ち去られ、いまはダラム大聖堂に葬られている。彼は早くから「尊者ベーダ」と呼ばれた。墓碑の文句を考えていた修道士が言葉に詰まって眠り込むと、朝には天使が「尊者」の語を書き足していたという伝説も生まれた。ダンテは『神曲』の天国篇で、ベーダを光り輝く賢者たちのなかに置いている。1899年、カトリック教会はベーダを教会博士に加えた。