できごと

ディオクレティアヌスの大迫害

Diocletianic persecution
AD303年2月23日
重要度 4
ディオクレティアヌスの大迫害に関わる図版:Flagellation St Erasmus Crypta Balbi
Flagellation St Erasmus Crypta Balbi Wikimedia Commons Public domain

概要

教会を壊し、聖書を焼き、聖職者を投獄し、翌年、全員に犠牲を命じた。10年続き、東方で厳しかった。最後で最大の迫害。それが終わって10年で、皇帝がキリスト教徒になる。

場所

ニコメディア
40.77°N 29.94°E · トルコ・イズミト

本文

ディオクレティアヌスは284年に即位してから20年近く、キリスト教徒に手を出さなかった。帝国を二人の正帝と二人の副帝で分けて治める仕組み(四分統治の開始)を作り、税と軍と通貨を立て直すのに忙しかった。その間に信徒は増え、軍にも役所にも宮廷にもいた。妻プリスカと娘ヴァレリアも信仰に心を寄せていたと伝えられる。東の都ニコメディアでは、皇帝の宮殿から見える丘の上に教会が建っていた。

風向きが変わり始めたのは299年ごろとされる。皇帝が犠牲を捧げて獣の内臓で吉凶を占わせたところ、しるしが出なかった。占い師は、そばにいた信徒の役人が額に十字を切ったせいだと言った。皇帝は宮廷と軍の者全員に犠牲を命じ、拒む者を追い出した。のちにディデュマのアポロンの神託に伺いを立てると、「地上の正しい者たち」が神託を妨げている、という答えが返ったともいう。

キリスト教徒殉教者の最後の祈り(ジャン=レオン・ジェローム画、1883年)
キリスト教徒殉教者の最後の祈り(ジャン=レオン・ジェローム画、1883年)Wikimedia Commons Jean-Léon Gérôme · Public domain

303年2月23日は、境界の神テルミヌスの祭りの日だった。夜明けに役人と兵がニコメディアの教会に入り、聖書を焼き、建物を打ち壊した。翌日、勅令が出る。教会を壊し、聖書を差し出させ、集会を禁じ、信徒の身分の高い者からは位と特権を奪い、法廷で訴える権利を取り上げる。勅令を貼り出した板を、一人の信徒が引き剥がして破り、捕らえられて焼き殺された。

この迫害を強く求めたのは副帝ガレリウスだった、と書いたのは修辞学の教師ラクタンティウスである。彼はニコメディアにいて、のちに『迫害者たちの死について』を書いた。それによれば、その後まもなく宮殿が二度火事になり、ガレリウスは信徒の仕業だと言い立て、怯えた皇帝は宮廷の者を拷問にかけた。妻と娘も犠牲を捧げさせられたという。ラクタンティウスはガレリウスを憎んでいて、その筆には割り引きが要るが、目の前で起きたことを書いた数少ない証言である。

ディオクレティアヌスの前に立つ聖ゲオルギオス(グルジア、ウビシ修道院の14世紀壁画)
ディオクレティアヌスの前に立つ聖ゲオルギオス(グルジア、ウビシ修道院の14世紀壁画)Wikimedia Commons Damiane · Public domain

勅令は重ねられた。夏の第二の勅令で、各地の司教と司祭が牢に入れられた。牢が聖職者であふれ、盗賊を入れる場所がなくなったと伝えられる。秋には即位20年を祝う恩赦として、犠牲を捧げた者は釈放するという第三の勅令が出た。304年の第四の勅令は、男も女も子どもも、帝国の住民全員に犠牲を命じた。神々に香を焚くか、死ぬかを選ばせるものだった。

厳しさは土地によってまるで違った。東を受け持つガレリウスと、その甥で後継の副帝マクシミヌス・ダイアの領分では、処刑と拷問が続いた。パレスティナのカイサリアにいた歴史家エウセビオスは、目の前で殉教した人々を『パレスティナの殉教者たち』に書き残した。西の副帝コンスタンティウス・クロルスは、ガリアとブリタニアで教会を壊しただけで人を殺さなかったとラクタンティウスは書き、エウセビオスは建物さえ壊さなかったとする。その息子が、のちのコンスタンティヌス1世である。

ローマと北アフリカでは別の傷が残った。命じられて聖書を役人に渡した聖職者は「引き渡した者(トラディトル)」と呼ばれた。迫害が終わると、トラディトルの授けた叙階や洗礼は有効かが争われ、北アフリカの教会は二つに割れた。これがドナトゥス派の分裂で、100年以上続く。

305年5月1日、ディオクレティアヌスは退位し、アドリア海のほとりの宮殿に引きこもった。迫害はガレリウスとマクシミヌスに引き継がれたが、終わらせたのもガレリウスだった。311年、重い病の床で彼は寛容令を出す。信徒を祖先のしきたりに戻そうとしたが、彼らは自分の神を拝むこともやめてしまったので、集会を許す。その代わり皇帝と国家のために神に祈れ、という趣旨だった。ガレリウスは数日後に死んだ。マクシミヌスはなお迫害を続けたが、313年に敗れて死に、同じ年にミラノ勅令が信仰の自由を認めた。

ミラノ勅令に関わる図版:Constantine Chiaramonti Inv1749
ミラノ勅令Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

死者の数ははっきりしない。数千人とするのが多くの研究者の見方で、3000人前後と見積もる人もいる。帝国の人口から見れば少ないが、教会の記憶の中では、これが最後で最大の迫害になった。それが終わってわずか十数年で、皇帝自身が教会を保護し、ニケーア公会議を開くことになる。エジプトのコプト教会は、ディオクレティアヌスが即位した284年を「殉教者紀元」の元年として数え、いまも教会の暦にこの年号を使っている。

同じ時代のできごと

陳寿『三国志』AD285年頃八王の乱AD291年四分統治の開始AD293年アクスムの紅海交易AD300年頃ディオクレティアヌスの最高価格令AD301年アルメニアのキリスト教国教化AD301年(伝承)五胡十六国304年ミルウィウス橋の戦いAD312年10月28日
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