人物

ヒエロニムス

Jerome
AD347年頃 – AD420年9月30日(享年73・推定)
ローマ帝国重要度 4

概要

ダルマティア生まれ。ローマで学び、砂漠で修行し、ヘブライ語を学び、ローマの貴婦人たちに聖書を教え、噂で追われてベツレヘムに移った。ラテン語聖書を訳し、論争で誰とでも喧嘩した。絵では獅子と髑髏と一緒に描かれる。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

ヒエロニムスのウルガタAD405年 · 訳者

本文

347年頃、ローマ帝国のダルマティアとパンノニアの境にあった小さな町、ストリドンに生まれた。生年には340年頃とする説もある。町の場所はいまでは分からず、現在のクロアチアとスロヴェニアのあたりと考えられている。家は裕福なキリスト教徒で、息子に十分な教育を受けさせた。ラテン語名はエウセビウス・ソフロニウス・ヒエロニュムスという。

『書斎の聖ヒエロニムス』ギルランダイオ画(1480年)
『書斎の聖ヒエロニムス』ギルランダイオ画(1480年)Wikimedia Commons Domenico Ghirlandaio · Public domain

少年の頃にローマへ出て、高名な文法家ドナトゥスのもとで学んだ。キケロやウェルギリウスの文章を読み込み、ラテン語の文体を磨いた。のちに聖書の翻訳と論争の文章で発揮される彼の筆の力は、この古典の教養に支えられていた。ローマで洗礼を受けたのもこの頃である。帝国でキリスト教が公認されてから半世紀ほどが過ぎ、まもなく国の宗教となっていく時期だった(キリスト教の国教化)。

学業を終えると、ガリアのトリーアに滞在し、東方から伝わったばかりの修道生活を知った。世を捨てて祈りと禁欲に生きる生き方に引かれ、北イタリアのアクイレイアで仲間と修道の集まりを作ったが、やがて解散した。374年頃、東方へ旅立ち、シリアのアンティオキアに着いた。

聖ヒエロニムスを描いた絵画(マティアス・ストーム)
聖ヒエロニムスを描いた絵画(マティアス・ストーム)Wikimedia Commons Matthias Stom · Public domain

アンティオキアで重い病にかかったとき、彼は夢を見た。天の裁きの座に引き出され、お前は何者かと問われてキリスト教徒ですと答えると、嘘をつくな、お前はキケロの徒であってキリストの徒ではない、お前の宝のあるところにお前の心もあるのだ、と言われ、鞭で打たれた。目が覚めると、肩に打たれた跡が残っていた、と彼は後年の手紙に書いている。異教の古典を二度と手にしないと誓ったが、実際にはその後も古典の引用を手放さなかった。

その後の数年、彼はシリアの砂漠で隠者として暮らした。誘惑と戦うための修行として、ユダヤ教から改宗した人についてヘブライ語を学び始めた。ラテン語の流麗な文章に慣れた耳には、ヘブライ語はきしむような粗い音に聞こえたと書いている。だがこの苦労が、のちに彼の名を不朽にする仕事の土台になった。砂漠を出たあと、アンティオキアで司祭となり、コンスタンティノープルではギリシア教父の大家ナジアンゾスのグレゴリオスに学んだ。

フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』
フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

382年、ローマに戻り、教皇ダマスス1世の秘書になった。教皇は彼に、ラテン語の福音書の訳を改めるよう命じた。当時、西方の教会ではさまざまなラテン語訳が出回り、写本ごとに文が違って混乱していた。ヒエロニムスはギリシア語の写本と照らし合わせて、福音書の訳文を整えた。ローマでは、マルケッラ、パウラとその娘エウストキウムら、裕福な貴族の未亡人や娘たちが彼のもとに集まり、聖書を学び、禁欲の生活を送った。彼は処女の生活を熱心にたたえる一方、ローマの聖職者たちの贅沢と俗っぽさを辛辣な筆で書き立て、多くの敵を作った。

384年、後ろ盾の教皇ダマススが亡くなった。同じ頃、パウラの娘ブラエシッラが、厳しい断食の末に若くして亡くなった。ヒエロニムスの指導が娘を死なせたのだという非難と、貴婦人たちとの関係をめぐる噂が広まった。385年、彼はローマを去った。ローマを、聖書に出てくる堕落した都になぞらえてバビロンと呼んだ。パウラとエウストキウムもあとを追った。

トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)
トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

一行は聖地を巡り、エジプトの修道士たちを訪ねたのち、386年、イエスの生まれた町ベツレヘムに落ち着いた。パウラの財産で男子と女子の修道院が建てられ、ヒエロニムスはそこで生涯を終えるまで34年あまりを過ごした。この地で、彼は旧約聖書をヘブライ語の原典から直接ラテン語に訳す仕事に取りかかった。それまでのラテン語訳は、ギリシア語訳からの重訳だった。ヘブライ語の原典こそ真実だという彼の考えは、ギリシア語訳を神の霊感によるものとみなす人々から反発を受けた。北アフリカのアウグスティヌスも、手紙で彼の新しい訳に懸念を伝えている。二人の手紙のやりとりは、聖書の解釈をめぐってとげとげしいものになったが、やがて互いを認め合うようになった。

ヒエロニムスは生涯、論争の人だった。3世紀の神学者オリゲネスの教えをめぐる争いでは、旧友のルフィヌスと激しく対立して絶交した。結婚と処女を同じ価値だとする者、聖人の遺物を崇めることを批判する者、人は自分の力で罪を避けられると説くペラギウスの一派。相手を容赦なく罵る文章は、当時の人々をも驚かせた。一方で、聖書の各書の注解、教会の著作家の伝記集、多くの手紙を書き残し、その手紙は当時のローマ社会を知る貴重な資料になっている。

410年、アラリックの率いる西ゴートの軍がローマを略奪した(西ゴートのローマ略奪)。ベツレヘムでその知らせを聞いたヒエロニムスは、全世界を取った都が、いま取られた、と書き、口述しようとすると涙で言葉が途切れる、と嘆いた。ローマから逃れてきた人々が、聖地にも押し寄せた。

西ゴートのローマ略奪に関わる図版:Visigoths sack Rome
西ゴートのローマ略奪Wikimedia Commons Joseph-Noël Sylvestre · Public domain

420年9月30日、ヒエロニムスはベツレヘムで亡くなった。遺体はのちにローマに移されたとされる。彼が訳し、あるいは改訂したラテン語の聖書は、やがて西方の教会で広く使われるようになり、「広く用いられた版」という意味でウルガタと呼ばれた(ヒエロニムスのウルガタ)。16世紀、トリエント公会議はウルガタをカトリック教会の正式な聖書と定めた。中世ヨーロッパの人々が読んだ聖書は、ほとんどがこのラテン語の訳だった。

絵画の中のヒエロニムスは、書斎で書き物をする学者の姿か、荒野で石を手に胸を打つ苦行者の姿で描かれる。そばには獅子と髑髏があり、赤い枢機卿の衣と帽子が置かれている。獅子は、足に刺さった棘を抜いてやった獅子がなついたという伝説から来ているが、もとは別の聖人の話が混ざったものとされる。枢機卿という位も、彼の時代にはまだ無かった。翻訳者の守護聖人とされ、亡くなった9月30日は国際翻訳の日になっている。

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