ポーランドの受洗

概要
ピャスト家のミェシュコがボヘミアの王女を娶り、洗礼を受けた。ドイツからの宣教を待たず、自分から入ることで教会の独立を保つ。ポーランドの歴史の最初の年になる。
場所
52.53°N 17.58°E · ポーランド
関わった人(1)
ミェシュコ1世AD930年頃–AD992年 · 受洗本文
ポーランドの歴史は、この年から数えられる。966年、ピャスト家の首長ミェシュコ1世がキリスト教の洗礼を受けた。それ以前の土地のことを伝える文字の記録は、ほとんど無い。
ミェシュコの名が初めて記録に現れるのは、960年代のザクセンの年代記である。ヴィスワ川とヴァルタ川のあいだ、いまのポーランドの西部から中部にあたる土地で、いくつもの部族を束ねていた。同じころこの地を訪れたユダヤ人の商人イブラーヒーム・イブン・ヤアクーブは、ミェシュコが3000人の武装した兵を抱え、税を取り立てて養っていると書き残している。すでに国と呼べるだけの仕組みができつつあった。

西には、強大な東フランク王国があった。オットー1世は955年にマジャル人を破り、962年にはローマで皇帝の冠を受けている。オットーはエルベ川の東に住む異教のスラヴ人に向けて、征服と宣教を同時に進めていた。辺境伯たちが兵を率いて東へ進み、その後ろに司教座が置かれていく。異教の首長でいる限り、ミェシュコは十字架を掲げた隣人に攻められる口実を与えることになる。
ミェシュコが選んだのは、ドイツからではなく、南のボヘミアを通してキリスト教に入る道だった。965年、ボヘミア公ボレスラフ1世の娘ドブラヴァを妻に迎え、翌966年に洗礼を受けた。日付は、復活祭の前の聖土曜日、4月14日だったとする説が広く受け入れられているが、確かな記録は無い。どこで洗礼を受けたのかも分かっていない。ポズナン、グニェズノ、ポズナン近くの湖の島オストルフ・レドニツキなどの説がある。

この選び方には意味があった。ドイツの宣教師の手で洗礼を受ければ、新しい教会は、ちょうどこのころ東方の宣教のために作られようとしていたマクデブルク大司教座の下に置かれる。それはドイツの教会、ひいてはドイツの王の影響の下に入ることを意味した。ボヘミアを通して入ったことで、ポーランドの教会はある程度の独立を保てた。968年にはポズナンに最初の司教が置かれている。
洗礼は、ミェシュコ一人の改宗ではなかった。首長に続いて、従う兵と有力者たちが洗礼を受け、異教の聖所は壊されていった。もっとも、民衆の間にキリスト教が根づくには、さらに長い時間がかかっている。11世紀の前半には、異教への揺り戻しを伴う大きな反乱が起きた。

キリスト教の君主となったミェシュコは、ヨーロッパの国々の一員として振る舞った。972年にはドイツの辺境伯の軍を打ち破っている。晩年の990年ごろには、自分の国をローマ教皇の保護に委ねるという文書を作らせた。原本は残っていないが、その要約が教皇庁の記録に伝わり、国の範囲を示す最古の史料として扱われている。
992年にミェシュコが亡くなると、息子のボレスワフ1世が跡を継いだ。1000年、皇帝オットー3世がグニェズノを訪れ、ここに大司教座が置かれる。ポーランドの教会は、ドイツの大司教の下ではなく、直接ローマにつながる独自の組織を持った。ボレスワフは1025年、亡くなる直前に王の冠を受けている(ポーランド王国)。
東では、22年後の988年に、キエフ・ルーシの大公がビザンツから洗礼を受けた(キエフ・ルーシの改宗)。ポーランドがローマの、ルーシがコンスタンティノープルの教会に入ったことで、スラヴの世界は二つに分かれた。文字もポーランドはラテン文字、ルーシはキリル文字を使うことになる。

1966年、共産党が政権を握るポーランドで、洗礼の千年祭が祝われた。ただし教会と政権は別々に祝った。教会は首座大司教ヴィシンスキのもとで9年間にわたる祈りの準備を重ね、千年祭を「ポーランドの洗礼の千年」として祝った。政権は同じ年を「ポーランド国家の千年」として、軍の行進や記念行事を並べた。同じ966年を、一方は信仰の始まり、一方は国家の始まりとして奪い合ったのである。その13年後、ポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世が故国を訪れたとき(ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問)、ミサには数十万の人が集まった。