ユリアヌス
概要
一族を殺されて育った皇族の学者が、皇帝になって古い神々を戻そうとした。2年でペルシアの戦場に死ぬ。「背教者」の名は勝った側が付けた。
所属
ローマ関わったできごと(1)
ユリアヌスの異教復興AD361年 · 皇帝本文
ユリアヌスは331年ごろ、コンスタンティノープルに生まれた。父ユリウス・コンスタンティウスは、皇帝コンスタンティヌス1世の異母弟である。母は生まれてまもなく亡くなった。

337年、コンスタンティヌスが死ぬと(コンスタンティヌスの洗礼と死)、都の兵が皇族の男たちを殺した。殺されたのはユリアヌスの父、叔父、いとこたちである。生き残ったのは、皇帝の三人の息子と、幼いユリアヌス、それに病弱で長くないと見られた異母兄ガルスだけだった。新しい皇帝コンスタンティウス2世がこの殺戮にどこまで関わったかは分からないが、ユリアヌスは生涯、従兄を一族の仇と見ていた。
少年のユリアヌスは、宦官の家庭教師マルドニオスにホメロスやギリシアの古典を教わった。同時にキリスト教徒として育てられ、ニコメディアの司教エウセビオスの監督を受けた。11歳ごろからは兄と共に小アジアのカッパドキアの山中の皇帝領に移され、6年ほどを事実上の軟禁のうちに過ごした。

20歳前後、ニコメディアやペルガモン、エフェソスで学ぶことを許された。そこで新プラトン主義の哲学者たちに出会い、とりわけエフェソスのマクシモスの神秘的な教えに強く惹かれた。ユリアヌスは、このころ密かに古い神々の信仰に戻った、と後に自ら書いている。表向きはキリスト教徒として振る舞い続けた。
351年、兄ガルスは副帝に取り立てられたが、東方での統治の乱暴さを咎められ、354年に処刑された。ユリアヌスも疑いをかけられて宮廷に呼ばれたが、皇后エウセビアのとりなしで助かり、アテネで学ぶことを許された。ここで、のちに教会の教父となるナジアンゾスのグレゴリオスとも同じ時期に学んでいる。

355年、コンスタンティウスはユリアヌスを副帝に任じ、ライン川の国境が破れかけていたガリアへ送った。軍の経験は全く無い、書物ばかり読んできた24歳の若者だった。周りには皇帝の目付け役が付けられていた。ところがユリアヌスは驚くほど早く戦い方を身につけ、357年、ストラスブール近くでアラマンニ人の大軍を破った。税を軽くして属州の暮らしも立て直し、兵たちの信頼を得ていった。
360年、ペルシアとの戦争のためにガリアの兵を東へ送れという命令が届いた。家族を残して遠くへ行くことを嫌った兵たちは、パリでユリアヌスを盾に乗せて担ぎ上げ、正帝と叫んだ。内戦は避けられないと思われたが、翌361年、東から軍を進めようとしたコンスタンティウスが病で死んだ。死の床でユリアヌスを後継ぎに指名したとされ、ユリアヌスは戦わずに単独の皇帝になった(ユリアヌスの異教復興)。

皇帝になると、ユリアヌスは信仰を隠すのをやめた。閉ざされていた神殿を開かせ、犠牲の儀式を復活させた。追放されていた司教たちを呼び戻したのは、キリスト教徒どうしの内輪もめを狙ったためだと、当時の歴史家アンミアヌスは見ている。362年には、古典の神々を信じない者が古典の文学を教えるのはおかしいとして、キリスト教徒が教師になる道を事実上閉ざした。キリスト教徒からは最も憎まれた政策である。エルサレムのユダヤ教の神殿を再建させる計画も立てたが、工事は火災などで止まった。
ユリアヌスは、自分を哲学者でもある皇帝と考えた。宮廷の宦官や料理人を大量に解雇し、髭を伸ばし、質素に食べ、夜遅くまで書き物をした。362年から翌年にかけて滞在したシリアのアンティオキアでは、この流儀が裏目に出た。華やかな見世物と贅沢を好む市民は、哲学者風の髭の皇帝を嘲った。ユリアヌスは怒りを込めて、自分を笑いものにする風刺文『髭嫌い』を書き、市民の軽薄さを皮肉った。

363年春、ユリアヌスは大軍を率いてササン朝ペルシアへ攻め込んだ。チグリス川をくだって都クテシフォンの前まで迫ったが、城を落とせなかった。退却の途中、6月26日、敵の急襲に鎧も着けずに飛び出して脇腹に槍を受け、その夜に死んだ。31歳か32歳だった。槍を投げたのが敵兵か、味方のキリスト教徒かという噂は当時からあった。死に際に「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」と言ったという話は、後のキリスト教側の作り話とされる。
後継者はすぐに異教の復興をやめ、ユリアヌスの政策は2年足らずで終わった。キリスト教の側は彼を「背教者」と呼んだ。一方、ユリアヌスに従軍したアンミアヌスは、欠点を認めながらも偉大な君主として描いた。18世紀の啓蒙思想家たちは、教会に逆らった哲人皇帝として彼を見直した。30年ほど後、テオドシウス1世のもとでキリスト教は帝国の国教となり、古い神々の祭儀は禁じられていく。