第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪
概要
聖地へ向かうはずの十字軍が、同じキリスト教の都を略奪した。ビザンツはこれ以後立ち直れない。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
エンリコ・ダンドロAD1107年頃–AD1205年 · 艦隊を出したドージェ本文
1204年4月12日、十字軍とヴェネツィアの兵が、コンスタンティノープルの城壁を越えた。翌日から3日間、町は略奪された。キリスト教徒の軍が、キリスト教の都を、900年近く一度も外敵に落とされたことのない町を荒らした。
なぜエジプトへ向かうはずの軍がここにいたのか。ヴェネツィアへの船賃を払えずザラを攻め、ビザンツの亡命皇子に頼まれて都へ向かい、約束の金が払われなかったという経過は、第四回十字軍に書いた。ここでは、落ちた町で何が起きたかと、その後を見る。

攻撃は北側、金角湾に面した海の城壁から行われた。ヴェネツィアの船が城壁に寄せ、船の帆柱に渡した橋から兵が塔へ移った。4月9日の最初の攻撃は失敗した。12日、風に助けられて船が城壁に近づき、塔の一つが取られ、門が内側から開かれた。皇帝は夜のうちに逃げた。翌朝、指揮官を失った町は抵抗をやめた。
前の年からの戦いで、町はすでに傷ついていた。1203年の夏と、その後の放火で、大火が何度も起き、町の広い範囲が焼けていた。そこへ略奪が来た。

指導者たちは、教会と女性には手を出すなと命じていたという。守られなかった。ビザンツの歴史家ニケタス・コニアテスは、その場にいて、家を失って逃げた。彼は、十字架を背負うと称する者たちが、イスラームの人々よりひどいことをした、と書いている。17年前、エルサレムを取り返したサラディンの軍は、町のキリスト教徒をこれほどには扱わなかった、と。
ハギア・ソフィアの完成では、祭壇が打ち壊されて銀が分けられ、聖具を運び出すために騾馬が堂内に引き入れられた。娼婦が総主教の座に座って歌ったと、ニケタスは書いている。一方、十字軍の側の記録者ヴィルアルドゥアンは、世界の始まりからこれほどの略奪品を得た町は無かった、と書いた。
古代から町に置かれてきた青銅の像の多くは、溶かされて貨幣になった。競馬場に立っていた四頭の青銅の馬は、ヴェネツィアに運ばれ、サン・マルコ大聖堂の正面に飾られた。いまは中に移され、正面には複製が立っている。キリストの茨の冠とされるもの、十字架の木片とされるものなど、数多くの聖遺物が西ヨーロッパの教会や修道院に散っていった。
町が落ちたあと、十字軍とヴェネツィアは、あらかじめ決めておいた取り決めのとおりに帝国を分けた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝に選ばれ、ラテン帝国が始まる。総主教にはヴェネツィア人が就いた。ヴェネツィアは「ローマ帝国の4分の1と、そのまた半分の主」という称号を得て、エーゲ海の島々や港を手に入れた。エンリコ・ダンドロは翌年、この町で死んでいる。

ビザンツの側は、亡命先で三つの国を立てた。小アジアのニカイア、ギリシア西部のエペイロス、黒海沿岸のトレビゾンドである。このうちニカイアが力を蓄え、1261年、皇帝ミカエル8世がコンスタンティノープルを取り返した。ラテン帝国は57年で終わった。
だが戻ってきた帝国は、もとの大きさを取り戻せなかった。領土は狭くなり、交易の利益はヴェネツィアとジェノヴァに握られ、軍を養う金が足りない。小アジアではトルコ系の勢力が伸び続けた。ビザンツは1204年の傷から立ち直れないまま、2世紀あまりのちのコンスタンティノープル陥落を迎える。1204年に壊されていなければ、オスマンを止められたのではないか、という問いは、答えの出ないまま繰り返し立てられてきた。

この略奪は、東西の教会の溝を決定的にしたとも言われる。教会の分裂は東西教会の分裂として1054年に起きていたが、それは聖職者どうしの争いだった。1204年は、ふつうの人々の記憶に刻まれた。ギリシア正教の人々にとって、西のキリスト教徒は、聖堂を荒らした者たちになった。
教皇インノケンティウス3世は、略奪の知らせを聞いて、十字軍を強く非難した。だが同時に、東の教会がローマに従うことになったのを喜んでもいる。

2001年、教皇ヨハネ・パウロ2世はギリシアを訪れ、カトリック教徒が正教徒に対して犯した罪について、神に赦しを求めた。その中で、1204年の略奪にもふれている。3年後、800年の節目に、コンスタンティノープルの総主教はその謝罪を受け入れた。