できごと

第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪

Sack of Constantinople
AD1204年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族西遼(カラ・キタイ)クマン(キプチャク)ベルベル諸部族アイユーブ朝キエフ・ルーシブワイフ朝ファーティマ朝ラージプートの諸王国ガズナ朝神聖ローマ帝国サーミそのほかのルーシ諸公国ノルウェーイファト王国ヴォルガ・ブルガールムワッヒド朝ノヴゴロド公国マクリアウラジーミル・スーズダリ公国ルーム・セルジューク朝ポーランド王国スウェーデンKwarizm-Shahブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国アルワガーリチ=ヴォルィーニ公国ガーナ帝国フランス王国ブワイフ朝ハドラマウトイエメン東ローマ帝国カネムガーナアルメニアケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesComté de ToulouseデンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドマスカットジョージアヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1204年コンスタンティノープル
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1204年の版図を描いています(53勢力)。

概要

聖地へ向かうはずの十字軍が、同じキリスト教の都を略奪した。ビザンツはこれ以後立ち直れない。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

関わった人(1)

エンリコ・ダンドロAD1107年頃–AD1205年 · 艦隊を出したドージェ

本文

1204年4月12日、十字軍とヴェネツィアの兵が、コンスタンティノープルの城壁を越えた。翌日から3日間、町は略奪された。キリスト教徒の軍が、キリスト教の都を、900年近く一度も外敵に落とされたことのない町を荒らした。

なぜエジプトへ向かうはずの軍がここにいたのか。ヴェネツィアへの船賃を払えずザラを攻め、ビザンツの亡命皇子に頼まれて都へ向かい、約束の金が払われなかったという経過は、第四回十字軍に書いた。ここでは、落ちた町で何が起きたかと、その後を見る。

第四回十字軍に関わる図版:ConquestOfConstantinopleByTheCrusadersIn1204
第四回十字軍Wikimedia Commons Loyset Liédet · Public domain

攻撃は北側、金角湾に面した海の城壁から行われた。ヴェネツィアの船が城壁に寄せ、船の帆柱に渡した橋から兵が塔へ移った。4月9日の最初の攻撃は失敗した。12日、風に助けられて船が城壁に近づき、塔の一つが取られ、門が内側から開かれた。皇帝は夜のうちに逃げた。翌朝、指揮官を失った町は抵抗をやめた。

前の年からの戦いで、町はすでに傷ついていた。1203年の夏と、その後の放火で、大火が何度も起き、町の広い範囲が焼けていた。そこへ略奪が来た。

1204年4月12日、十字軍によるコンスタンティノープル占領(ドラクロワ画)
1204年4月12日、十字軍によるコンスタンティノープル占領(ドラクロワ画)Wikimedia Commons Eugène Delacroix · Public domain

指導者たちは、教会と女性には手を出すなと命じていたという。守られなかった。ビザンツの歴史家ニケタス・コニアテスは、その場にいて、家を失って逃げた。彼は、十字架を背負うと称する者たちが、イスラームの人々よりひどいことをした、と書いている。17年前、エルサレムを取り返したサラディンの軍は、町のキリスト教徒をこれほどには扱わなかった、と。

ハギア・ソフィアの完成では、祭壇が打ち壊されて銀が分けられ、聖具を運び出すために騾馬が堂内に引き入れられた。娼婦が総主教の座に座って歌ったと、ニケタスは書いている。一方、十字軍の側の記録者ヴィルアルドゥアンは、世界の始まりからこれほどの略奪品を得た町は無かった、と書いた。

1204年のコンスタンティノープル包囲戦 (パルマ・イル・ジョーヴァネ画)
1204年のコンスタンティノープル包囲戦 (パルマ・イル・ジョーヴァネ画)Wikimedia Commons Palma Le Jeune (1544–1620) · Public domain

古代から町に置かれてきた青銅の像の多くは、溶かされて貨幣になった。競馬場に立っていた四頭の青銅の馬は、ヴェネツィアに運ばれ、サン・マルコ大聖堂の正面に飾られた。いまは中に移され、正面には複製が立っている。キリストの茨の冠とされるもの、十字架の木片とされるものなど、数多くの聖遺物が西ヨーロッパの教会や修道院に散っていった。

町が落ちたあと、十字軍とヴェネツィアは、あらかじめ決めておいた取り決めのとおりに帝国を分けた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝に選ばれ、ラテン帝国が始まる。総主教にはヴェネツィア人が就いた。ヴェネツィアは「ローマ帝国の4分の1と、そのまた半分の主」という称号を得て、エーゲ海の島々や港を手に入れた。エンリコ・ダンドロは翌年、この町で死んでいる。

ヴェネツィアのサン・マルコ寺院内にあるサン・マルコの馬。このレプリカが寺院外に展示されている。
ヴェネツィアのサン・マルコ寺院内にあるサン・マルコの馬。このレプリカが寺院外に展示されている。Wikimedia Commons Tteske · CC BY 3.0

ビザンツの側は、亡命先で三つの国を立てた。小アジアのニカイア、ギリシア西部のエペイロス、黒海沿岸のトレビゾンドである。このうちニカイアが力を蓄え、1261年、皇帝ミカエル8世がコンスタンティノープルを取り返した。ラテン帝国は57年で終わった。

だが戻ってきた帝国は、もとの大きさを取り戻せなかった。領土は狭くなり、交易の利益はヴェネツィアとジェノヴァに握られ、軍を養う金が足りない。小アジアではトルコ系の勢力が伸び続けた。ビザンツは1204年の傷から立ち直れないまま、2世紀あまりのちのコンスタンティノープル陥落を迎える。1204年に壊されていなければ、オスマンを止められたのではないか、という問いは、答えの出ないまま繰り返し立てられてきた。

コンスタンティノープル陥落に関わる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
コンスタンティノープル陥落Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

この略奪は、東西の教会の溝を決定的にしたとも言われる。教会の分裂は東西教会の分裂として1054年に起きていたが、それは聖職者どうしの争いだった。1204年は、ふつうの人々の記憶に刻まれた。ギリシア正教の人々にとって、西のキリスト教徒は、聖堂を荒らした者たちになった。

教皇インノケンティウス3世は、略奪の知らせを聞いて、十字軍を強く非難した。だが同時に、東の教会がローマに従うことになったのを喜んでもいる。

第4回十字軍参加を説くエンリコ・ダンドロ、ギュスターヴ・ドレ画
エンリコ・ダンドロWikimedia Commons Gustave Doré · Public domain

2001年、教皇ヨハネ・パウロ2世はギリシアを訪れ、カトリック教徒が正教徒に対して犯した罪について、神に赦しを求めた。その中で、1204年の略奪にもふれている。3年後、800年の節目に、コンスタンティノープルの総主教はその謝罪を受け入れた。

出典(3)

ヴィルアルドゥアン 『コンスタンティノープル征服記』全篇
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第60章
アミン・マアルーフ(牟田口義郎、新川雅子 訳) 『アラブが見た十字軍』第4部(フランク人が同じキリスト教の都を襲う)

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