乳香の道
概要
乳香と没薬は、アラビア半島南端のごく限られた地域にしか生えない木の樹脂である。切り傷から滲み出た涙を集め、乾かす。神殿で焚き、遺体に塗り、薬にした。年に3000トンが北へ運ばれたという推計がある。ラクダの隊商が、2000キロ以上を60日以上かけて進んだ。その道の要にあったのがナバテア人のペトラである。彼らは水の乏しい岩山に貯水の仕組みを作り、通行税を取って富を築いた。海路が開けると、道は衰えた。
場所
30.33°N 35.44°E · ヨルダン
本文
乳香はボスウェリア属の木の、没薬はコンミフォラ属の木の樹脂である。どちらも、乾いた石灰岩の斜面のような厳しい土地にしか育たない。産地はアラビア半島の南端、いまのイエメンとオマーンの一部と、紅海を挟んだアフリカの角のソマリアやエチオピアにほぼ限られていた。世界中が欲しがるものが、ごく狭い土地からしか採れなかったのである。
採り方は昔もいまも変わらない。木の幹に刃物で傷をつけると、乳白色の樹液がにじみ出て、空気に触れて固まる。人々はこれを木の「涙」と呼んだ。数週間かけて固まった粒を集める。収穫は年に何度かできるが、一本の木から採れるのは数キロほどで、傷をつけすぎれば木は弱って死ぬ。休ませながら採らなければ続かない。

乳香を焚くと、白い煙が香りとともに天へ昇っていく。神への供え物として、これほどふさわしいものは無いと考えられた。エジプトの神殿では毎日の儀式で香が焚かれた。女王ハトシェプストは紅海の南のプントの国へ船団を送り、香の木そのものを根ごと持ち帰らせた。その場面は、デイル・エル=バハリの葬祭殿の壁に浮き彫りで残っている(ハトシェプストの治世)。旧約聖書の「出エジプト記」には、聖なる香の調合の指示があり、そこにも乳香が入っている。ローマでは神殿の祭儀や、皇帝を神として拝む儀式で香が焚かれた。初期のキリスト教徒が迫害されたとき、皇帝の像の前で香を焚くかどうかが忠誠の試しにされたこともある。そのキリスト教も、のちには教会の典礼に香を取り入れた。没薬は防腐と臭い消しの力があるとされ、遺体の処置やミイラ作りに使われた。薬にもなった。
新約聖書のマタイによる福音書では、東方から来た博士たちが生まれたばかりのイエスに黄金と乳香と没薬を捧げる。この三つが並べられていること自体が、乳香と没薬が金に並ぶほどの値打ちを持っていたことを物語る。後の解釈では、黄金は王であること、乳香は神であること、没薬は死を表すとされた。

ローマの博物学者プリニウスは『博物誌』で香の交易を詳しく書いている。南アラビアの産地から地中海のガザまで、隊商は65の宿駅を経て進んだという。全行程は2000キロを超え、60日以上かかった。現代の研究者の中には、地中海世界へ運ばれた乳香が年に数千トンに達したと見積もる人もいる。数字には議論があるが、規模の大きさは伝わる。プリニウスは、インドと中国とアラビアのために、帝国から毎年少なく見積もっても1億セステルティウスが流れ出ていると嘆いた。実際、インドの遺跡からはローマの金貨や銀貨が大量に見つかっていて、この嘆きを考古学が裏づけている。
この道を可能にしたのは、ヒトコブラクダである。アラビア半島でラクダが荷を運ぶ家畜として使われるようになったのは紀元前2千年紀ごろと考えられ、紀元前1千年紀には重い荷を安定して積める鞍が工夫された。ラクダは水を飲まずに何日も、重い荷を背負って歩ける。馬やロバではこの砂漠の道は通れなかった。道は南のハドラマウトやサバの王国から、ナジュラーン、のちのメディナにあたるヤスリブを経て北へ延び、終点近くの要に、ナバテア人の町ペトラがあった(ナバテア人のペトラ)。

ペトラは赤い砂岩の峡谷の奥に隠れた町である。雨は年に150ミリほどしか降らないが、降るときには鉄砲水になって谷を駆け下る。ナバテア人はこの水を逃さなかった。ダムと水路を築き、岩をくり抜いた貯水槽をいくつも造って、砂漠の真ん中に水のある町を作った。水があるから、隊商は必ずここに立ち寄る。ナバテア人は通行税を取り、宿と水と飼料を売って富を築いた。プリニウスは、隊商が道中で払う費用を並べている。水、飼料、宿、通行税、祭司や番人への支払い、各地の王への税。ガザに着くころには、荷の値打ちのかなりの部分がそれらに消えていた。
この道を衰えさせたのは、海だった。紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて、ギリシア人やローマ帝国の船乗りたちは、インド洋の季節風を使って紅海から南アラビアやインドへ直接渡る航路を確立した。紀元1世紀の『エリュトラー海案内記』には、その航路と港と商品が細かく書かれている。陸の長い道を通らなくても、香は船で運べるようになった。106年にはトラヤヌスがナバテア王国を併合し、ローマの属州とした。4世紀以降、ローマ帝国がキリスト教の国になると、異教の神殿で焚かれる香の需要も減っていった(教会の典礼にも香は残ったので、消えたわけではない)。ペトラはしだいにさびれ、地震にも見舞われて、やがて忘れられていく。
ヨーロッパの人々がペトラを「再発見」したのは1812年である。スイス生まれの探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが、イスラーム教徒の旅人に身をやつして谷に入った。もちろん土地の遊牧民はずっとこの町を知っていた。発見されたのは、ヨーロッパにとってだけである。いまでは年に数十万人が訪れる観光地になっている。
乳香はいまも採られている。主な産地はオマーンのドファール地方、イエメン、ソマリア、エチオピアである。香料や化粧品、そして中東の家庭での日々の使用のため需要は高く、傷をつけすぎた木が弱っている。研究者は、このままでは乳香の木が数十年で半分に減るおそれがあると警告している。産地の多くは政情の不安定な地域でもある。三千年にわたって神々のために焚かれてきた煙は、いまも細い木の涙に支えられている。