できごと

コルンバのアイオナ修道院

Columba founds Iona
AD563年
重要度 3
北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民東ローマ帝国サーミフランク王国西ゴート王国サクソン人ブルグント族SvevesAnglo-Saxonsテューリンゲン族西ローマ帝国BasksAD563年アイオナ島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD563年の版図を描いています(13勢力)。

概要

アイルランドの王族の僧が、12人と小舟でスコットランドの小島に渡り、修道院を建てた。ピクト人を改宗させ、ここからノーサンブリアへ布教が延びる。『ケルズの書』はこの島で書かれ始めたとされる。

場所

アイオナ島
56.34°N -6.42°E · スコットランド

関わった人(1)

コルンバAD521年12月7日–AD597年6月9日 · 創設

本文

アイルランドにキリスト教が根づいたのは、5世紀のパトリキウスのアイルランド布教からとされる。ローマ帝国の支配が及ばなかったこの島には都市が無く、教会は司教の座る町ではなく、各地の修道院を中心に組み立てられた。修道院は王や有力な一族と結びつき、学問と写本作りの場になった。そしてアイルランドの修道士たちは、故郷を捨てて異国をさすらうことを、最も厳しい信仰の修行と考えた。キリストのための巡礼である。

コルンバは521年ごろ、アイルランドの北西部の、のちのドニゴールの地で生まれた。アイルランドで最も力のある王家の一つ、ウイ・ネイル氏の流れをくむ家である。アイルランドの言葉ではコルム・キレ、「教会の鳩」と呼ばれる。若いころから修道院で学び、師の一人はフィニアンという名の学僧だった。やがて自ら修道院をいくつも建てたと伝えられる。

アイオナ修道院
アイオナ修道院Wikimedia Commons Reading Tom from Reading, UK · CC BY 2.0

563年、42歳ごろのコルンバは、アイルランドを離れた。なぜ故郷を出たのかには、いくつもの話がある。よく知られているのは、師のフィニアンが持っていた詩篇の写本を、コルンバが断りなく写し取ったという話である。返還を求められて争いになり、王は、子牛はその母牛のもの、写しはその本のもの、と裁いた。納得しないコルンバの一族が王と戦い、多くの死者が出た。コルンバはその償いとして、戦で死んだ者と同じ数の魂を異国で救うと誓って海を渡った、というのである。ただしこれは後の時代になって語られた伝説で、写本をめぐる裁きの話が詳しく語られるのは、16世紀に書かれた伝記である。実際に近いのは、コルンバの死から百年ほど後に書かれた伝記で、そこでは、561年の戦いの2年後に、キリストのための巡礼者となることを望んで旅立ったとだけ記されている。戦いとの関わりがあったのかどうかは、はっきりしない。

コルンバは12人の仲間とともに、木の枠に革を張った小舟で海を渡り、スコットランドの西の沖にある小さな島に着いた。アイオナである。長さ5キロあまり、幅2キロに満たない島である。伝説では、コルンバは故郷のアイルランドが見えない場所を選んでここにとどまったという。そのころスコットランドの西部には、アイルランドから渡ってきたゲール人がダルリアダという王国を築いており、島はこの王国か、あるいは東のピクト人の王から与えられたとされる。コルンバはここに木と土で質素な修道院を建てた。

『ケルズの書』、ヨハネ福音書冒頭の華麗な装飾文字(292r葉)
『ケルズの書』、ヨハネ福音書冒頭の華麗な装飾文字(292r葉)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

コルンバはアイオナを拠点に、ダルリアダの王たちと深く結びつき、574年にはこの国の新しい王を祝福して王位に就けたと伝えられる。キリスト教の儀式で王を立てた、ブリテン島での最初の記録とされる。また北へ旅して、いまのインヴァネスの近くにいたピクト人の王ブリデイの城を訪ねた。伝記によれば、閉ざされた城の門はコルンバが十字を切ると自然に開き、その旅の途中、ネス川で人を襲う水の怪物を、祈りで退けたという。これは、のちのネス湖の怪物の話の、最も古い記録としてよく引かれる。ピクト人がどの程度コルンバによって改宗したのかについては、研究者のあいだで見方が分かれている。

コルンバは597年6月9日、アイオナで亡くなった。夜の祈りのために教会に入り、祭壇の前で倒れたと伝えられる。同じ年、ローマ教皇グレゴリウス1世が送ったアウグスティヌスが、イングランドの南東のケントに上陸している(アウグスティヌスのケント布教)。アイルランドから北へ、ローマから南へ、二つのキリスト教がブリテン島の両端から入ってきた年として、よく対にして語られる。

19世紀末のアイオナ修道院の廃墟。屋根の落ちた教会と回廊
19世紀末のアイオナ修道院の廃墟。屋根の落ちた教会と回廊Wikimedia Commons Anonymous, marked 'Iona Cathedral and St Oran's Chapel' 265 J.V. · Public domain

コルンバの死後も、アイオナは北の世界の信仰と学問の中心であり続けた。635年、アイオナの修道士エイダンは、亡命中にアイオナでキリスト教に触れていたノーサンブリアの王オズワルドに招かれ、東海岸の島リンディスファーンに修道院を開いて、イングランド北部に布教した。だが、復活祭の日の数え方や修道士の髪の剃り方など、アイルランド流のやり方はローマ流と違っていた。664年のウィットビー教会会議で、ノーサンブリアはローマ流を選び、アイオナ自身も8世紀の初めにはローマ流の暦を受け入れた。

8世紀の終わりから、北の海からヴァイキングが襲来した(ヴァイキングの襲来)。アイオナも795年から繰り返し襲われ、806年には修道士68人が殺された。修道士たちの多くはアイルランドのケルズに新しい修道院を建てて移った。世界で最も美しい写本の一つとされる『ケルズの書』は、アイオナで作り始められ、ケルズで仕上げられたとする説が有力である。アイオナはその後もスコットランドの王たちの埋葬の地として重んじられ、いまも巡礼と観光の人々が、小さな島を訪れ続けている。

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