カルケドン公会議

概要
キリストの神性と人性をどう言うかを決めた。これを受け入れなかったエジプトとシリアの教会が分かれ、いまも別々に続いている。
場所
40.99°N 29.02°E · トルコ・イスタンブール(カドゥキョイ)
本文
451年10月、コンスタンティノープルの対岸、小アジアの町カルケドンに、500人を超える司教が集まった。皇帝マルキアヌスが呼びかけた公会議である。問われたのは、イエス・キリストは神なのか人なのか、という問いの、さらに先だった。
キリストが神であることは、4世紀のニケーア公会議で決まっていた。では、神であるキリストが人として生まれ、苦しみ、死んだというのは、どういうことなのか。神としての性質(神性)と人としての性質(人性)は、一人のキリストの中でどうつながっているのか。この問いをめぐって、東方の大きな教会どうしが激しく争っていた。

一方の極にいたのが、コンスタンティノープルの司教だったネストリウスである。ネストリウスは、神性と人性をはっきり分けて考え、マリアを「神の母」と呼ぶことに反対した。人としてのイエスを産んだのであって、神を産んだのではない、と。これに激しく反対したのが、アレクサンドリアの司教アレクサンドリアのキュリロスだった。キリストは一人であり、神が人となったのだから、マリアは神の母と呼ばれるべきだ、と。431年のエフェソス公会議は、キュリロスの側に立ってネストリウスを退けた。
ところが今度は、反対の極が問題になった。コンスタンティノープルの修道院長エウテュケスは、キリストの人性は神性に溶け込み、一つの本性になったと説いた。449年、エフェソスでもう一度会議が開かれ、アレクサンドリアの司教ディオスコロスが力ずくでエウテュケスを認めさせた。ローマの教皇レオ1世はこれに強く反発し、この会議を「盗賊会議」と呼んだ。

翌450年、皇帝テオドシウス2世が落馬して死に、新しい皇帝マルキアヌスと皇妃プルケリアは、ローマの教皇と手を結んで、改めて公会議を開いた。それがカルケドン公会議である。会議はディオスコロスを退け、教皇レオが書き送った書簡を正しい教えとして認めた。
会議が採択した定式は、こうである。キリストは、一つの位格(一人の人格)のうちに、二つの本性を持つ。その二つは、混ざらず、変わらず、分かれず、離れずにある。神性と人性が溶け合ってしまうのでもなく、二人のキリストに分かれてしまうのでもない。四つの否定の言葉で、その間の細い道を示そうとした。

読んで分かりやすい文ではない。分かりにくいまま、これが正統の教えになった。ローマのカトリック教会も、東方の正教会も、プロテスタントの多くの教会も、いまもこの定式を受け入れている。
会議は、教会の序列にもふれた。コンスタンティノープルの司教に、ローマに次ぐ地位を与える決まりを定めたのである。教皇レオは、この決まりを認めなかった。後の東西教会の分かれ目の一つが、ここにも顔を出している。

この定式を受け入れなかった教会がある。エジプトのコプト教会、シリアの教会、アルメニアの教会(アルメニアのキリスト教国教化)、そしてエチオピアの教会(アクスムのキリスト教化)である。彼らはキュリロスの言い方に忠実に、キリストは二つの本性から成る一つの本性だと考えた。「二つの本性のうちに」という言い方は、ネストリウスに逆戻りするものに見えたのである。アルメニアの教会は、同じ年にペルシアとの戦いのさなかにあり、会議に出ることすらできなかった。
この人々は長く「単性論者」と呼ばれてきた。だが、当事者はその呼び名を否定している。キリストの人性を否定したことは無い、と。20世紀の後半、カトリックや正教会とこれらの教会の間で対話が進み、両者の違いの多くは、同じことを違う言葉で言おうとしたためだった、とする共同の声明が出されている。
ビザンツの皇帝たちは、分裂を何度も埋めようとした。482年には、カルケドンにふれずに折り合いをつける文書を出したが、今度はローマとの関係がこじれた。ユスティニアヌス1世は正統を守りつつ反対派を取り込もうとし、皇后テオドラは反対派の修道士たちをかくまった。6世紀には反対派が独自の司教の組織を作り、分裂は固まった。7世紀には、ヘラクレイオスが新しい言い方で和解を試みたが、かえって新しい争いを生んだ。
その7世紀、アラブの軍がシリアとエジプトに来た。コンスタンティノープルの正統の教えを押しつけられてきた住民の中には、新しい支配者を、少なくとも以前の支配者より悪くないと見た者もいたとされる。それがアラブの征服を容易にした一因だとする見方がある。ただ、住民がアラブ軍を歓迎したという話には誇張も多く、どこまでが事実かには議論がある。
分かれた教会は、いまも別々に続いている。エジプトのコプト教会は、イスラームの国で千数百年を生き延び、いまも数百万の信者を持つ。わずかな言葉の選び方をめぐる争いが、1500年あとの教会の地図を決めている。