できごと

国王至上法

Acts of Supremacy
AD1534年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1534年の版図を描いています(24勢力)。

概要

議会が国王をイングランド教会の首長と定めた。離婚を認めない教皇から切れるためで、教義はほとんど変えていない。変えたのは、誰が上に立つかだった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(2)

ヘンリー8世AD1491年6月28日–AD1547年1月28日 · 国王エリザベス1世AD1533年9月7日–AD1603年 · のちにこの体制を固める

本文

1534年11月、イングランドの議会は、国王ヘンリー8世を「イングランド教会の地上における唯一最高の首長」と定める法を通した。イングランドの教会は、千年近く仰いできたローマの教皇から切り離された。

きっかけは、王の結婚だった。ヘンリー8世は1509年、兄アーサーの未亡人だったスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンと結婚した。兄の妻を娶ることは教会法で禁じられていたが、教皇の特別な許しを得ていた。二人の間には何人も子が生まれたが、育ったのは娘のメアリーだけだった。王家を継ぐ男子がいなければ、イングランドはまた王位をめぐる内乱に戻るのではないか。ヘンリーは、子が育たないのは兄の妻を娶ったことへの神の罰だと考えるようになった。旧約聖書のレビ記には、兄弟の妻を娶る者には子が無い、と書かれている。そのころヘンリーは、王妃の侍女アン・ブーリンに心を奪われてもいた。

ヘンリー8世の肖像
ヘンリー8世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1527年、ヘンリーは教皇クレメンス7世に、結婚を初めから無効とするよう求めた。ふつうなら、王の頼みが通ることもありえた。だがこの年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍がローマを略奪し、教皇はその手の内にあった。カール5世は、キャサリンの甥である。叔母を辱める判断を、教皇が下せるはずがなかった。交渉は何年も長引き、これをまとめられなかった枢機卿ウルジーは失脚した。

ヘンリーは、教皇の許しを待たずに道を開くことにした。法律家トマス・クロムウェルを右腕に、議会を使って一つずつ法を通していった。1533年、イングランドの裁判をローマに訴えることを禁じる法が成立し、新しくカンタベリー大司教になったクランマーが、王の結婚を無効と宣言した。ヘンリーはすでにアンとひそかに結婚しており、9月に娘エリザベスが生まれた。後のエリザベス1世である。教皇はヘンリーを破門すると告げた。

エリザベス1世の肖像(ダーンリー・ポートレート)
エリザベス1世Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1534年、議会は王位継承法で、アンの子を王位継承者と定め、すべての臣下にそれを認める宣誓を求めた。そして11月、国王至上法が通った。教皇が持っていた教会の首長の地位は、王のものになった。司教を任じる権限も、教会から入る税も、異端を裁く権限も、王に移った。王の首長の地位を否定することは、反逆罪とされた。

これに従えなかった人々がいる。かつての大法官トマス・モアと、ロチェスターの司教フィッシャーは、宣誓を拒み、1535年に処刑された(トマス・モアの処刑)。修道士たちの中にも、処刑された者がいた。

ただ、ヘンリーは教えの中身をほとんど変えなかった。かつてヘンリーは、マルティン・ルターを批判する本を書き、教皇から「信仰の擁護者」の称号を贈られていた。ミサも、七つの秘跡も、司祭の独身も、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるという教えも、そのまま残した。1539年には、こうした伝統の教えを守るよう定めた法まで作っている。ルター派の教えを広める者は、カトリックを守る者と同じように処刑された。変えたのは、教会の上に誰が立つかだった。

それでも、変化は少しずつ進んだ。1530年代の末には、英語の聖書を各地の教会に置くよう命じられた。

国王至上法がもたらした最も大きな変化は、修道院の解散だった。1536年から1540年にかけて、王はイングランドとウェールズの800あまりの修道院を閉じさせ、その土地と財産を取り上げた。修道院は国の土地の大きな部分を持っていた。王はその多くを貴族や地主、商人に売り、戦費に充てた。北部では、修道院の解散と宗教の変化に反対する大規模な反乱が起きたが、鎮められた。

修道院の土地を買った人々は、イングランドがカトリックに戻れば、土地を返せと言われるかもしれないと恐れた。そのため、彼らはローマから離れた体制を支える側に回った。教えの中身よりも、土地の持ち主の利害が、宗教の改革をイングランドに根づかせた理由の一つだったとされる。

ヘンリーの死後、息子エドワード6世のもとで、教会ははっきりとプロテスタントの方向へ進んだ。続く娘メアリー1世は、ローマとの関係を戻し、至上法を廃止して、多くのプロテスタントを火あぶりにした。1558年に即位したエリザベス1世は、翌年、新しい国王至上法を通し、自らを教会の「最高の統治者」とした。首長ではなく統治者という言い方に改めたのは、女性が教会の頭になることへの反発を避けるためだったとされる。イングランド国教会の形は、ここで固まった。

いまもイギリスの君主は、イングランド国教会の最高の統治者である。離婚を認めてもらうために始まった争いが、一つの国の教会のあり方を、500年近く決めている。

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