ゴンダールの城群
概要
エチオピアの皇帝が、移動する宮廷をやめて定住の都を築いた。石造りの城が並ぶ。ポルトガル人の影響とされてきたが、在来の建築の系譜で説明する見方が強い。
場所
12.60°N 37.45°E · エチオピア
本文
エチオピアの皇帝は、長いあいだ決まった都を持たなかった。皇帝は軍と役人と聖職者を引き連れ、天幕の町ごと各地を回った。一つの場所に何万もの人がとどまれば、周りの薪と食べ物を食べ尽くしてしまう。移動することで地方の領主を見張り、税を取り立てることもできた。ラリベラの岩窟教会を残した王朝の時代から、13世紀にソロモン朝が立ってからも(エチオピア・ソロモン朝の成立)、その形は続いた。
16世紀、エチオピアは存亡の危機に立った。東のイスラーム国家アダルの将軍アフマド・グラーンが攻め込み、教会と修道院を焼いて高原の大半を荒らした。ポルトガルが銃兵を送って皇帝を助け、1543年にグラーンは戦死する。これをきっかけに、ポルトガルの使節とイエズス会(イエズス会の創立)の宣教師が宮廷に出入りするようになった。

宣教師たちは、エチオピアの教会をローマ・カトリックに改めさせようとした。皇帝ススニョスは1622年に改宗を受け入れ、国の教会にもローマの教えを強いた。古くから続くエチオピア正教会の聖職者と民衆は激しく反発し、反乱が相次いだ。1632年、ススニョスは位を息子のファシラダスに譲る。
ファシラダスは父の路線を覆した。イエズス会を国外へ追い、正教会の信仰を元に戻した。そして1636年ごろ、高原の北、タナ湖の北に位置するゴンダールを都と定めた。皇帝が天幕を畳み、一つの場所に住むことにしたのである。交易路の結び目で、水と土地に恵まれた場所だった。

ファシラダスが建てたのは、石を積んだ二階建ての城だった。四隅に丸い塔を立て、上には胸壁をめぐらせる。その後の皇帝たちも、それぞれ自分の宮殿や図書館、宴会の館を城壁の中に建て増した。こうして、周囲900メートルほどの壁に囲まれた王宮の一画ができあがる。町には教会が次々に建ち、天井一面に天使の顔を描いたデブレ・ブルハン・セラシエ教会はとくに名高い。
塔と胸壁を持つ形は、ヨーロッパの城に似ている。そのため、ポルトガル人やインドから来た職人が建てた、と長く説明されてきた。実際、イエズス会の宣教師パエスは、前の皇帝のために石造りの宮殿を建てている。ただ近年は、紅海交易(アクスムの紅海交易)で栄えたアクスム以来の在来の石造建築の系譜や、地元の職人の技で説明する見方が強い。外から来た要素を取り入れながら、ゴンダール独自の様式ができたと見るのが穏当だろう。
ゴンダールはおよそ200年、エチオピアの都であり続けた。宮廷には学者と聖職者が集まり、写本の制作や教会の絵画、教会音楽が栄えた。城の近くには、ファシラダスの名を冠した浴場の建物があり、いまも毎年1月の公現祭には、そのまわりの池に水が張られ、大勢の信者が水の祝福を受けに集まる。
18世紀の前半には、皇后メンテワブが幼い息子と孫の後見として、数十年にわたって政治を動かした。彼女は城壁の外の丘にクスクアムと呼ばれる教会と宮殿を建て、宮廷の芸術を手厚く保護した。女性が国の舵を取ったこの時代を、ゴンダールの最後の輝きと見る人も多い。だがその陰で、皇后の出身の一族と他の諸侯との争いが深まり、帝国の分裂の種がまかれていった。
18世紀の後半、皇帝の権威は崩れた。1769年に有力な領主が皇帝を殺して実権を握り、以後、地方の諸侯が皇帝を立てては廃する時代が続く。旧約聖書の士師記になぞらえて「王侯の時代」と呼ばれ、皇帝は名ばかりの存在になった。
1855年、テオドロス2世が諸侯を倒して統一を取り戻したが、彼は都をゴンダールから移した。1888年には、スーダンのマフディー派の軍がゴンダールを襲い、多くの教会を焼いた。帝国の中心は南へ移り、のちにメネリク2世がアディスアベバを都とする。城群は1979年に世界遺産になり、天幕の宮廷が石の都に変わった時代を伝えている。