ウェスタの火
概要
ローマの中心に、屋根のある丸い建物があり、そこで火が燃え続けていた。神像は置かず、火そのものを祀る。守るのは六人の巫女で、十歳前後で選ばれ、三十年を務め、その間は結婚できない。火を絶やせば鞭で打たれ、貞潔を破れば生き埋めにされた。三月一日に一度だけ、木を擦って新しい火を起こし、改めて灯し直す。火を保つことが国家の存続そのものと結ばれていた。西暦394年、テオドシウスがこの火を消させ、千年以上続いた炉が閉じられた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
ローマの中心の広場フォルム・ロマヌムの一角に、屋根のある丸い小さな建物があった。ウェスタの神殿である。中に神の像は置かれていない。祀られていたのは、そこで燃え続ける火そのものだった。ウェスタは炉の女神で、ギリシアのヘスティアにあたる。建物が丸いのは、ローマのごく古い時代の円い小屋の形を留めているからだといわれる。家ごとの炉が、そのまま国の炉になった、と考えられていた。
伝承では、この火とそれを守る巫女の制度を定めたのは、ローマの第二代の王ヌマ・ポンピリウスとされる(ヌマの暦と祭祀)。紀元前7世紀のことになるが、史実としてどこまでさかのぼれるかは確かめようがない。ただ、共和政の初めにはすでにあったことは確かである。

火を守ったのは、六人のウェスタの巫女だった。選ばれるのは六歳から十歳ほどの少女で、両親が健在であること、体に欠けがないことなどが条件とされ、名のある家の出が多かった。任期は三十年。最初の十年で務めを学び、次の十年で実際に務め、最後の十年で後進を教える。そのあいだは結婚が許されない。任期を終えれば結婚してよかったが、実際に結婚した者は少なかったと伝えられる。
巫女には、ローマの女性としては例外的な特権が与えられていた。父親の権力から外れ、自分の財産を持ち、遺言を書くことができた。劇場や競技場には特別の席があり、外出のときには先導の役人がついた。刑場へ引かれていく罪人に道で行き会えば、その者を赦すことができたともいう。巫女は国家の宝であり、その身は神聖とされた。
その分、罰は苛酷だった。火を絶やせば、巫女は大神祇官から鞭で打たれた。もっと重いのは、貞潔を破ったとされた場合である。罪を問われた巫女は、輿に乗せられ、顔を覆われて町を運ばれ、市壁の内側の「悪しき野」と呼ばれる場所へ連れて行かれた。そこには地下の小部屋が掘られ、寝台と灯と、わずかな食べ物が置かれている。巫女はそこへ降ろされ、上から土がかけられた。神聖な巫女の血を人の手で流してはならないので、直接は手を下さない形をとったのである。形式を守るための工夫が、かえって罰を残酷にしていた。古代の記録に残る処刑の例は十件ほどで、その多くが戦で大敗した直後や疫病の時期に起きている。災いの理由を、巫女の不貞に求めたのだと見られている。
一年に一度だけ、火は改めて灯し直された。ローマの古い暦で年の初めにあたる三月一日である。新しい火を起こすのに火打ち石は使わず、果樹の板に木の棒を当てて揉み、摩擦で火を起こしたと伝えられる。人類が火(火の使用)を手に入れてからずっと使われてきた、最も古いやり方である。絶やさないことと、一年に一度作り直すこと。その両方が同じ儀礼の中に入っていた。続いていることを、毎年あらためて確かめ直していたと言ってよい。

なぜ火だったのか。火を手に入れるのは、長いあいだ手間のかかる仕事だった(火口箱)。だから人は、一度起こした火を保つ。家では主婦が炉の火を守り、夜は灰に埋め、朝に掘り起こして火を継いだ。ウェスタの神殿の火は、この家の炉の作法を国の大きさに広げたものだった。だからこの火が消えることは、国の暮らしが途切れることを意味した。ローマが危機に陥るたびに、人々は神殿の火を気にかけた。
ローマがキリスト教の帝国になると、この火の居場所は失われていく。382年、皇帝グラティアヌスは、ウェスタの巫女たちへの公の支給を打ち切り、元老院の議場から勝利の女神の祭壇を撤去させた。元老院の重鎮シュンマクスは祭壇の復旧を皇帝に願い出て、古い祭祀を守ることがローマを守ることだと訴えた。これに強く反対したのが、ミラノの司教アンブロシウスである。この論争は、古代の神々とキリスト教の対立を象徴する出来事として知られる。391年からはテオドシウス1世が異教の祭祀を禁じる法を相次いで出し、ウェスタの火もまもなく消された。伝承では394年とされる。千年を超えて燃え続けたとされる炉は、こうして閉じられた。
フォルム・ロマヌムには、いまも丸い神殿の一部が復元されて立ち、その隣には巫女たちの住まいの跡が残っている。中庭には、歴代の大巫女の像の台座が並び、そのうちの一つは名前が削り取られている。
火を絶やさず運び続ける儀礼は、別の形でいまも生きている。オリンピックの聖火である。ギリシアのオリンピアで、凹面の鏡に日光を集めて火を点け、それをリレーで開催地まで運ぶ。途中で消えたときのために、予備の火を別に持っていく。大会で聖火が灯されたのは1928年のアムステルダムが最初で、聖火リレーは1936年のベルリン大会から始まった。古代のオリンピアの競技会に、この形の儀礼があったわけではない。それでも、していることは似ている。火が途切れずに続いていることを、目に見える形にするのである。火を起こすだけなら、いまは摩擦マッチの子孫を一本擦ればすむ。技術として要らなくなってから、火を守ることは儀礼として残った。