できごと

ウェスタの火

Sacred fire of Vesta
BC7世紀頃
重要度 3
サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民カラスク文化イラン系の牧畜民北欧青銅器時代の諸文化アラビアの牧畜遊牧民骨壺墓地(アーンフィールド)文化キンメリアサーミ新アッシリア帝国ベルベル系の人びとケルティベリア人Proto-Scythian cultureヒッタイトアラム人エラム国家群とアラム系諸王国Chernoles cultureLusatian cultureウラルトゥクシュ王国トラキアMilograd cultureイリュリア人エジプトフリュギア人イスラエル王国ギリシア諸ポリスBabyloniaサバア王国BC7世紀頃ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC7世紀頃の版図を描いています(30勢力)。

概要

ローマの中心に、屋根のある丸い建物があり、そこで火が燃え続けていた。神像は置かず、火そのものを祀る。守るのは六人の巫女で、十歳前後で選ばれ、三十年を務め、その間は結婚できない。火を絶やせば鞭で打たれ、貞潔を破れば生き埋めにされた。三月一日に一度だけ、木を擦って新しい火を起こし、改めて灯し直す。火を保つことが国家の存続そのものと結ばれていた。西暦394年、テオドシウスがこの火を消させ、千年以上続いた炉が閉じられた。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

本文

ローマの中心の広場フォルム・ロマヌムの一角に、屋根のある丸い小さな建物があった。ウェスタの神殿である。中に神の像は置かれていない。祀られていたのは、そこで燃え続ける火そのものだった。ウェスタは炉の女神で、ギリシアのヘスティアにあたる。建物が丸いのは、ローマのごく古い時代の円い小屋の形を留めているからだといわれる。家ごとの炉が、そのまま国の炉になった、と考えられていた。

伝承では、この火とそれを守る巫女の制度を定めたのは、ローマの第二代の王ヌマ・ポンピリウスとされる(ヌマの暦と祭祀)。紀元前7世紀のことになるが、史実としてどこまでさかのぼれるかは確かめようがない。ただ、共和政の初めにはすでにあったことは確かである。

巫女養成所を描いた絵(エクトール・ルルー画、1880年)
巫女養成所を描いた絵(エクトール・ルルー画、1880年)Wikimedia Commons Hector Leroux · Public domain

火を守ったのは、六人のウェスタの巫女だった。選ばれるのは六歳から十歳ほどの少女で、両親が健在であること、体に欠けがないことなどが条件とされ、名のある家の出が多かった。任期は三十年。最初の十年で務めを学び、次の十年で実際に務め、最後の十年で後進を教える。そのあいだは結婚が許されない。任期を終えれば結婚してよかったが、実際に結婚した者は少なかったと伝えられる。

巫女には、ローマの女性としては例外的な特権が与えられていた。父親の権力から外れ、自分の財産を持ち、遺言を書くことができた。劇場や競技場には特別の席があり、外出のときには先導の役人がついた。刑場へ引かれていく罪人に道で行き会えば、その者を赦すことができたともいう。巫女は国家の宝であり、その身は神聖とされた。

その分、罰は苛酷だった。火を絶やせば、巫女は大神祇官から鞭で打たれた。もっと重いのは、貞潔を破ったとされた場合である。罪を問われた巫女は、輿に乗せられ、顔を覆われて町を運ばれ、市壁の内側の「悪しき野」と呼ばれる場所へ連れて行かれた。そこには地下の小部屋が掘られ、寝台と灯と、わずかな食べ物が置かれている。巫女はそこへ降ろされ、上から土がかけられた。神聖な巫女の血を人の手で流してはならないので、直接は手を下さない形をとったのである。形式を守るための工夫が、かえって罰を残酷にしていた。古代の記録に残る処刑の例は十件ほどで、その多くが戦で大敗した直後や疫病の時期に起きている。災いの理由を、巫女の不貞に求めたのだと見られている。

一年に一度だけ、火は改めて灯し直された。ローマの古い暦で年の初めにあたる三月一日である。新しい火を起こすのに火打ち石は使わず、果樹の板に木の棒を当てて揉み、摩擦で火を起こしたと伝えられる。人類が火(火の使用)を手に入れてからずっと使われてきた、最も古いやり方である。絶やさないことと、一年に一度作り直すこと。その両方が同じ儀礼の中に入っていた。続いていることを、毎年あらためて確かめ直していたと言ってよい。

火の使用に関わる図版:Font-de-Gaume
火の使用Wikimedia Commons Charles Robert Knight · Public domain

なぜ火だったのか。火を手に入れるのは、長いあいだ手間のかかる仕事だった(火口箱)。だから人は、一度起こした火を保つ。家では主婦が炉の火を守り、夜は灰に埋め、朝に掘り起こして火を継いだ。ウェスタの神殿の火は、この家の炉の作法を国の大きさに広げたものだった。だからこの火が消えることは、国の暮らしが途切れることを意味した。ローマが危機に陥るたびに、人々は神殿の火を気にかけた。

ローマがキリスト教の帝国になると、この火の居場所は失われていく。382年、皇帝グラティアヌスは、ウェスタの巫女たちへの公の支給を打ち切り、元老院の議場から勝利の女神の祭壇を撤去させた。元老院の重鎮シュンマクスは祭壇の復旧を皇帝に願い出て、古い祭祀を守ることがローマを守ることだと訴えた。これに強く反対したのが、ミラノの司教アンブロシウスである。この論争は、古代の神々とキリスト教の対立を象徴する出来事として知られる。391年からはテオドシウス1世が異教の祭祀を禁じる法を相次いで出し、ウェスタの火もまもなく消された。伝承では394年とされる。千年を超えて燃え続けたとされる炉は、こうして閉じられた。

フォルム・ロマヌムには、いまも丸い神殿の一部が復元されて立ち、その隣には巫女たちの住まいの跡が残っている。中庭には、歴代の大巫女の像の台座が並び、そのうちの一つは名前が削り取られている。

火を絶やさず運び続ける儀礼は、別の形でいまも生きている。オリンピックの聖火である。ギリシアのオリンピアで、凹面の鏡に日光を集めて火を点け、それをリレーで開催地まで運ぶ。途中で消えたときのために、予備の火を別に持っていく。大会で聖火が灯されたのは1928年のアムステルダムが最初で、聖火リレーは1936年のベルリン大会から始まった。古代のオリンピアの競技会に、この形の儀礼があったわけではない。それでも、していることは似ている。火が途切れずに続いていることを、目に見える形にするのである。火を起こすだけなら、いまは摩擦マッチの子孫を一本擦ればすむ。技術として要らなくなってから、火を守ることは儀礼として残った。

同じ時代のできごと

ウパニシャッドの成立BC8〜BC5世紀春秋の争覇と鉄製農具BC8〜BC5世紀エトルリアの都市国家BC7世紀頃ヘシオドス『仕事と日』BC700年頃ミダス王のフリギアBC720年頃ヌマの暦と祭祀BC715年(伝承)センナケリブのエルサレム包囲BC701年カナートBC700年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC700年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →