ジョン・ウィクリフ
概要
オックスフォードの神学者。聖書だけが権威、教皇は反キリストになりうる、聖職者は財産を持つな。ランカスター公に守られて生きて死んだ。弟子はロラード派と呼ばれ、フスがその本を読み、ルターがフスを読んだ。「宗教改革の明けの明星」。
関わったできごと(1)
ウィクリフの英語聖書AD1382年頃 · 神学者本文
ジョン・ウィクリフは1320年代の後半、北イングランドのヨークシャー、リッチモンドの近くで生まれた。生年は1328年頃とされることが多いが、はっきりしない。若くしてオックスフォードに学び、1360年頃にはベイリオル・カレッジの学寮長を務め、1372年に神学の博士となった。スコラ哲学の論理学者として、当時のオックスフォードで最も鋭い頭脳の一人とみなされていた。

彼を学問の世界から政治の舞台に引き出したのは、教会の富をめぐる争いだった。14世紀のイングランドでは、教皇庁がアヴィニョンにあり(教皇のアヴィニョン捕囚)、百年戦争で敵対するフランス王の影響を強く受けていると見られていた。そのうえ教会は国内の土地の多くを持ち、教皇は聖職の任命と納金を通じてイングランドから富を吸い上げていた。1374年、ウィクリフは王の使節団の一員として、教皇の代理人と納金の問題を話し合うため、フランドルのブルッヘに赴いた。同じ年、レスターシャーのラターワースの教区司祭の職も与えられている。
彼の理論は、王の権力者たちにとって都合がよかった。神のみが真の支配権を持ち、人がこの世の財産や権力を持てるのは神の恩寵の中にある間だけだ。罪の中にある者はその資格を失う。ならば、堕落した教会から財産を取り上げることは、世俗の君主の正当な務めになる。王の叔父で実力者のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントは、ウィクリフを後ろ盾した。同じゴーントの庇護を受けた人物に、詩人のジェフリー・チョーサーがいる。

1377年2月、ロンドン司教はウィクリフをセント・ポール大聖堂に呼び出して審問しようとした。ゴーントが武装した従者を連れて同席し、司教と口論になり、集まった市民が騒ぎ出して、審問はうやむやに終わった。同じ年、教皇グレゴリウス11世はウィクリフの説の誤りを列挙した勅書を送ったが、翌年ランベスで開かれた審問でも、王の母が判決を出さないよう求め、彼は罰を免れた。
1378年、教皇がローマとアヴィニョンに並び立つ教会大分裂が始まった。二人の教皇が互いを破門し合う光景は、ウィクリフの批判をさらに急進的にした。教会の頭はキリストであって教皇ではない。教皇も聖書に背くなら反キリストになりうる。信仰の唯一の基準は聖書であり、それは聖職者だけでなく、すべての信徒が読めるものでなければならない。

決定的に支持者を失ったのは、1379年頃から聖餐について論じたときだった。ミサで聖別されたパンとぶどう酒は、見た目はそのままで、実体がキリストの体と血に変わる、というのが教会の教えだった。ウィクリフは、パンの実体が消えて外見だけが残るというのは哲学的にありえないとして、この教えを否定した。これは教会の秘跡の根幹に触れる問題で、ゴーントも彼に、もうこの話はするなと言ったと伝えられる。
1381年、ワット・タイラーの乱が起きた。反乱を説いた司祭ジョン・ボールはウィクリフの弟子だ、と敵対する年代記作者は書き立てた。ウィクリフ自身は反乱を非難したが、教会の財産を批判してきた彼の思想は、反乱と結びつけて見られるようになった。1382年5月、カンタベリー大司教はロンドンのブラックフライアーズ修道院に会議を招集し、ウィクリフの説から24の命題を選び出して異端または誤りと断じた。会議の最中に地震が起き、双方がこれを神の裁きのしるしだと言い合ったことから、「地震会議」と呼ばれる。オックスフォードの彼の支持者たちは追われ、ウィクリフ自身はラターワースに退いた。

晩年、彼は教区で書き続けた。聖書を民衆の言葉で読めるようにするという彼の考えのもと、弟子たちがラテン語の聖書を英語に訳し始めた(ウィクリフの英語聖書)。ウィクリフ自身がどこまで翻訳に手を下したかは分からない。彼の教えを広めて歩いた説教者たちは、のちに「ロラード派」と呼ばれた。由来ははっきりしないが、もとはオランダ語で、つぶやくように祈る者を嘲る呼び名だったと考えられている。
1384年12月28日、ミサの最中に彼は脳卒中で倒れ、12月31日に死んだ。ラターワースの教会の墓地に葬られた。
死後、彼の影響は海を越えた。イングランド王リチャード2世がボヘミア王家の王女を妃に迎えたことで、二つの国の間に学生の行き来が生まれ、ウィクリフの著作がプラハに持ち込まれた。プラハ大学のヤン・フスはその著作に強い影響を受けた。1415年、コンスタンツ公会議はウィクリフを異端と宣告し、遺骨を聖別された墓地から掘り出すよう命じた。同じ公会議でフスは火刑に処された。1428年、命令はようやく実行され、ウィクリフの遺骨は掘り出されて焼かれ、灰は近くのスウィフト川に流された。

16世紀、イングランドの宗教改革者ジョン・ベイルは、ウィクリフを「宗教改革の明けの明星」と呼んだ。フスを経て、やがてマルティン・ルターがフスの著作を読み、教会の改革に乗り出すことになる。20世紀に入り、聖書をすべての言語に翻訳することを目指す団体は、彼の名を取ってウィクリフ聖書翻訳協会と名乗った。