コンスタンティヌスの洗礼と死
概要
キリスト教を公認した皇帝は、死の床で初めて洗礼を受けた。アリウス派の司教から。白い衣で死に、自分が建てた都の使徒教会に、12使徒の棺に囲まれて葬られた。13人目の使徒として。息子三人が帝国を分け、親族を殺し合った。
場所
40.77°N 29.94°E · トルコ・イズミト
関わった人(1)
コンスタンティヌス1世AD272年頃–337年5月22日 · 皇帝本文
コンスタンティヌス1世は、306年にブリタニアのヨークで兵士たちに皇帝と呼ばれてから、30年あまり帝国を治めた。312年のミルウィウス橋の戦いの前にキリストのしるしを見たと伝えられ、翌年のミラノ勅令でキリスト教を認め、325年にはニケーア公会議を自ら開いた。330年には東方に新しい都を開いた(コンスタンティノープル遷都)。それでも、彼はこのときまで洗礼を受けていなかった。
337年、皇帝はペルシアのシャープール2世と戦う遠征の準備をしていた。伝記を書いたカエサレアのエウセビオスによれば、彼はヨルダン川で、キリストが洗礼を受けたのと同じ水で洗礼を受けたいと望んでいたという。だが復活祭のあと体調を崩し、小アジアのヘレノポリスの温泉に向かった。母ヘレナにちなんで名を改めた町である。病は重くなり、皇帝はニコメディアの近くの離宮に移って、そこで洗礼を受けた。

洗礼を授けたのは、ニコメディアの司教エウセビオス(伝記作者とは別人)だった。彼はキリストを神より一段低い存在とするアリウスの考えを支持し、ニカイアの公会議のあと一時追放された人物である。のちに許されて戻り、宮廷で皇帝の信頼を得ていた。キリスト教を公認した皇帝が、公会議で退けられた考えに近い司教から洗礼を受けたことは、後の時代の教会を戸惑わせた。
死ぬ間際まで洗礼を延ばしたことは、当時は珍しくなかった。洗礼はすべての罪を洗い流すが、一生に一度しか受けられない。その後に犯した罪は残る。人を罰し、戦争を命じる皇帝の仕事は罪と無縁ではいられないから、最後の時まで待つのは理にかなっていた。洗礼のあと、皇帝は白い衣をまとい、皇帝の紫の衣には二度と袖を通さなかったと伝えられる。

5月22日、聖霊降臨祭の日の昼に、コンスタンティヌスは死んだ。生年ははっきりしないが、60代半ばだったとされる。在位の長さは初代皇帝アウグストゥスに次ぐものだった。遺体は金の棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、宮殿に安置された。エウセビオスによれば、高官たちは息子たちが着くまでのあいだ、まるで皇帝が生きているかのように、決まった時刻に棺の前で礼をしたという。
皇帝は自分の墓を、都に建てた使徒教会に用意していた。12使徒を記念する12の柩の真ん中に、自分の柩が置かれた。13人目の使徒のような位置である。東方の教会は彼を「使徒に等しい者」と呼び、いまも母ヘレナと並べて聖人として祝っている。西方の教会は、彼を聖人の暦に加えなかった。

後継ぎは決まっていなかった。三人の息子と、甥のダルマティウスらに帝国を分けて任せていたからである。夏、都の兵士たちは「コンスタンティヌスの息子たちのほかには従わない」と騒ぎ、皇帝の異母弟たちとその息子たちを次々に殺した。生き残ったのは、まだ幼かった甥のガッルスとユリアヌスだけだった。この殺戮は次男コンスタンティウス2世が許したか、仕組んだものとされ、のちにユリアヌス自身もそう非難している。9月、三人の息子はそろって正帝の位に就いた。
兄弟の帝国は長続きしなかった。340年、長男コンスタンティヌス2世は弟コンスタンスの領地に攻め込み、北イタリアで討たれた。350年、コンスタンスは将軍マグネンティウスに帝位を奪われて殺された。コンスタンティウス2世がマグネンティウスを倒して帝国をひとりで治めたのは353年である。そのコンスタンティウスも子がなく、最後に残ったのは、一族を殺されて生き延びたユリアヌスだった。彼は伯父が広めたキリスト教から古い神々の祭りに戻そうとし(ユリアヌスの異教復興)、363年にペルシア遠征の途中で戦死する。コンスタンティヌスの家はここで絶えた。
使徒教会は、コンスタンティノープル陥落のあと、1460年代にスルタンのメフメト2世が取り壊し、跡にモスクを建てた。イスタンブールの考古学博物館には紫の斑岩でできた大きな石棺がいくつか残り、皇帝たちのものと考えられているが、どれがコンスタンティヌスのものかははっきりしない。ローマのカピトリーノ美術館には、高さ2.5メートルを超える彼の巨像の頭が残っている。大きく見開いた目は、天を仰いでいる。