できごと

グレゴリウス1世の即位

Pontificate of Gregory the Great
AD590年
重要度 4
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア東ローマ帝国サーミフランク王国西ゴート王国ヒムヤル王国マクリアガーナ王国アクスム王国サクソン人ブルグント族SvevesAnglo-Saxonsテューリンゲン族ブレンミュエス西ローマ帝国BasksAD590年ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD590年の版図を描いています(18勢力)。

概要

疫病のさなかに、修道士だった貴族が教皇になった。ロンバルドと交渉し、穀物を配り、イングランドへ宣教師を送る。教皇が都市の統治者になった始まりで、聖歌に名が残る。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

グレゴリウス1世AD540年頃–AD604年3月12日 · 教皇

本文

グレゴリウス1世は540年ごろ、ローマの元老院の家柄に生まれた。東ローマの軍と東ゴートの王国が20年にわたってイタリアを奪い合った戦争の時代で、子ども時代のローマは何度も包囲され、持ち主を変えた(ユスティニアヌスの再征服)。家は豊かで信仰が篤く、のちに聖人とされた人を何人も出している。

若いグレゴリウスは、行政の道を歩んだ。573年ごろにはローマの都市長官に就いている。都の秩序と食料の配給を預かる、古くからの最高位の役職だった。だが父の死後、彼は官職を捨てた。シチリアの所領に6つの修道院を建て、カエリウスの丘の自分の家を聖アンドレアスに捧げる修道院に変えて、一人の修道士として入った。断食と祈りの厳しい暮らしで体を壊し、生涯、胃の病に苦しんだという。

修道院の静けさは長く続かなかった。教皇は彼を助祭に任じ、579年ごろからはコンスタンティノープルの宮廷に駐在する使節として送った。6年ほど皇帝のそばで過ごし、帝国の政治のやり方を間近に見た。ローマに戻って教皇の側近として働いていた589年、テヴェレ川があふれ、翌年には疫病が町を襲った。ユスティニアヌスの疫病から続く流行の一つで、教皇ペラギウス2世も倒れた。

ユスティニアヌスの疫病に関わる図版:Plaguet03
ユスティニアヌスの疫病Wikimedia Commons Josse Lieferinxe · Public domain

聖職者と市民は、グレゴリウスを次の教皇に選んだ。彼は修道院に戻りたいと固辞し、皇帝に選出を認めないよう手紙を書いたと伝えられる。しかし皇帝は選出を認め、590年9月、教皇の座に就いた。疫病を鎮めるために、町の七つの地区から行列を出して祈らせた。行列の上に剣を鞘に収める天使が現れ、それがのちのサンタンジェロ城の名の由来になった、という話は後世の伝説になる。

教皇としてやったことは、統治だった。ランゴバルドのイタリア侵入から20年あまり、ランゴバルド人はイタリアの大半を押さえ、ローマにも迫っていた。東ローマの皇帝は遠いコンスタンティノープルにいて、イタリアを治める総督はラヴェンナにこもり、ローマを守る力も意思も乏しかった。グレゴリウスは、シチリアやイタリア各地に広がる教会の所領から穀物を集め、飢えた市民と難民に配った。城壁を守る兵に給料を払った。593年にランゴバルドの王がローマを囲むと、自ら交渉し、金を払って兵を退かせ、のちに休戦を結んだ。皇帝からは勝手な真似をすると叱責されたが、ローマを守ったのは教皇だった。教皇が都市の実質的な統治者になっていく始まりが、ここにある。

ランゴバルドのイタリア侵入に関わる図版:Italien zur Langobardenzeit
ランゴバルドのイタリア侵入Wikimedia Commons Johann Gustav Droysen · Public domain

もう一つの仕事が宣教だった。596年、グレゴリウスは自分の修道院の院長アウグスティヌスら約40人を、ブリテン島へ送った。一行は翌年ケントに上陸し、王の改宗を得る(アウグスティヌスのケント布教)。教皇になる前、ローマの市場で売られている金髪の少年たちを見かけ、どこの者かと尋ねるとアングル人だと答えられたので、アングル人ではなく天使(アンゲリ)だ、と言った、という話が伝わる。のちにベーダ『イングランド教会史』が書き留めた話で、事実かどうかは分からない。だが、ローマからイングランドへ直接つながる教会の始まりは、確かにこの教皇の命令だった。

グレゴリウスは多くを書いた。司教の務めと心がけを説いた『司牧規則』は、中世の聖職者の手引きになり、のちにアルフレッド大王が古英語に訳させている。『対話』は、イタリアの聖人たちの奇跡を集めた本で、その第2巻はヌルシアのベネディクトゥスの生涯を伝える、ほとんど唯一の史料になっている。手紙は800通あまりが残り、教会の土地の管理から奴隷の扱い、異教の神殿を壊さずに教会に変えよという宣教の指示まで、細かく書かれている。

グレゴリウス1世の肖像
グレゴリウス1世の肖像Wikimedia Commons Artaud de Montor (1772–1849) · Public domain

中世の教会の歌は、グレゴリオ聖歌と呼ばれる。彼が聖歌を集めて整えたとされ、鳩の姿の聖霊が耳元で歌を授ける姿でも描かれた。ただ、この結びつけは8世紀から9世紀にかけて広まったもので、本人がどこまで聖歌に関わったかは疑わしいとされている。

コンスタンティノープルの総主教が「全地の総主教」と名乗ったとき、グレゴリウスはこれを高慢だと批判し、自分を「神の僕たちの僕」と呼んだ。この呼び名は、以後の教皇の公式の称号として受け継がれていく。604年に死に、のちに「大教皇」と呼ばれ、西方の教会の四大教父の一人に数えられた。

同じ時代のできごと

北周の廃仏AD574年蘇我氏と物部氏の戦いAD587年隋の中国再統一AD589年西ゴートのカトリック改宗AD589年推古天皇の即位AD592年バーミヤンの大仏AD600年頃アウグスティヌスのケント布教AD597年チャトランガとチェスの伝播AD600年頃
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