スラヴ語への伝道
概要
聖書をスラヴの言葉に訳すために、新しい文字が作られた。のちのキリル文字の元になる。
場所
49.20°N 17.20°E · チェコ東部・スロヴァキア西部
関わった人(1)
キュリロスAD827年頃–AD869年2月14日 · 当人本文
9世紀の中ごろ、ドナウ川の北、いまのチェコ東部からスロヴァキアにかけて、スラヴ人の国大モラヴィア国が力をつけていた。西には東フランク王国があり、バイエルンの司教たちがモラヴィアに宣教師を送り込んで、キリスト教とともにフランクの影響を広げていた。ミサはラテン語で行われ、民衆には何を言っているのか分からなかった。
862年ごろ、モラヴィアの君主ラスチスラフは、コンスタンティノープルのビザンツ皇帝ミカエル3世に使いを送った。自分たちの民はすでにキリスト教を受け入れているが、自分たちの言葉で信仰を教えてくれる師がいない、そういう師を送ってほしい、と。フランクの教会の支配から抜け出したいという政治的なねらいもあったと考えられている。

皇帝と総主教フォティオスが選んだのは、テッサロニキ出身の兄弟、キュリロス(俗名コンスタンティノス)とメトディオスだった。テッサロニキの周りにはスラヴ人が多く住んでおり、兄弟は子どものころからスラヴの言葉を知っていたとされる。弟のコンスタンティノスは学識で知られた学者で、首都で哲学を教え、黒海の北のハザールへの使節にも加わっていた。兄のメトディオスは地方の長官を務めたあと修道士になっていた。
最大の問題は、スラヴ語に文字が無いことだった。コンスタンティノスは、出発の前にスラヴ語の音を書き表すための新しい文字を作った。これがグラゴル文字である。ギリシア文字やほかの文字の形も参考にしているとみられるが、スラヴ語の音に一つずつ記号を当てる形で、ほとんど一から組み立てられている。863年ごろモラヴィアに着いた兄弟は、福音書や典礼の書をこの文字でスラヴ語に訳し、弟子を育て、スラヴ語でミサを行った。

これにバイエルンの聖職者たちが強く反発した。神への祈りに使ってよいのは、十字架の上の罪状書きに記されたヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三つの言葉だけだ、という主張である。兄弟の側の記録は、この考えを「三言語主義」と呼んで退けた。コンスタンティノスは、雨は万人に等しく降り、太陽は万人を照らすのに、なぜ多くの民が自分の言葉で神を讃えてはならないのか、と反論したと伝わる。
867年、兄弟は弟子を連れてローマへ向かった。教皇ハドリアヌス2世は彼らを迎え、ローマの教会にスラヴ語の典礼書を供えて、スラヴ語での典礼を認めた。だがコンスタンティノスはローマで病に倒れ、修道士となってキュリロスの名を受けたあと、869年に42歳で亡くなった。遺体はローマのサン・クレメンテ聖堂に葬られている。

メトディオスは大司教に任じられてモラヴィアとパンノニアに戻ったが、バイエルンの司教たちに捕らえられ、2年半ほど幽閉された。教皇の介入で解放されたあとも反対は続き、885年にメトディオスが亡くなると、スラヴ語の典礼はローマからも禁じられ、弟子たちはモラヴィアを追われた。一部は奴隷として売られたとも伝わる。
追われた弟子たちを受け入れたのが、864年にキリスト教を受け入れたばかりのブルガリアだった(ブルガリアの改宗)。君主ボリス1世は、ビザンツの教会に呑み込まれないために、自前のスラヴ語の聖職者と書物を求めていた。弟子のクリメントやナウムはオフリドで何千人もの弟子を育て、首都プレスラフでも翻訳と著作が盛んに行われた。この時期のブルガリアで、ギリシア文字を土台に、グラゴル文字にしか無い音の記号を足した、より書きやすい文字が生まれた。これが、のちに師の名を取って「キリル文字」と呼ばれるようになる。誰が作ったのかは記録が無く、クリメントとする説もあるが確かではない。

キリル文字は、ブルガリアから東方正教会とともにセルビアやキエフ・ルーシへ伝わり、いまはロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、ブルガリア語、セルビア語、マケドニア語、さらにモンゴル語やカザフ語などでも使われている。一方、モラヴィアやポーランド、クロアチアの多くの地域はラテン語のローマ教会の側に入り、ラテン文字を使うようになった。スラヴの諸民族が文字で二つに分かれた境目は、このときの宣教の行方に始まる。ブルガリアなどでは5月24日がキュリロスとメトディオスを記念する文字の日になっている。