アーヘンの宮廷学校
概要
カール大帝がヨークからアルクィンを招き、宮廷に学校を置いた。古典の写本が集められ、読みやすい小文字の書体が作られた。いまのローマ字の小文字は、この書体から来ている。
場所
50.78°N 6.08°E · ドイツ
関わった人(1)
アルクィンAD735年頃–AD804年 · 校長本文
8世紀の後半、フランク王国の王カール大帝は、西ヨーロッパの大半を一つにまとめつつあった。だが、その広い国を動かすための文字の力は乏しかった。ローマ帝国が崩れてから300年、ラテン語の読み書きができる者は聖職者の一部に限られ、その聖職者でさえ文法を間違えた。写本の字は地方ごとにばらばらで、聖書の写しには誤りが積み重なっていた。神の言葉を正しく唱えられなければ、祈りは届かない。カールが学問に力を入れたのは、何よりもまず信仰のためだった。
781年、カールはローマからの帰りに北イタリアのパルマで、イングランドの学僧アルクィンに会った。アルクィンはヨークの大聖堂付属学校の長で、ヨーク大司教の任命のしるしを受け取るためにローマへ来ていた。ブリテン島の北は、ベーダ『イングランド教会史』を書いたベーダ以来、ラテン語の学問の灯がともり続けた土地だった。カールはアルクィンを宮廷に招き、翌782年ごろ、アルクィンはフランク王国に移った。

宮廷には、イタリアやスペインやアイルランドから学者が集まっていた。ランゴバルド人の歴史を書いたパウルス・ディアコヌス、文法家ピサのペトルス、西ゴートの出の詩人テオドゥルフ。アルクィンはその中心となって宮廷の学校を率い、王の子どもや貴族の子弟を教えた。宮廷は国中を移動したが、790年代からはアーヘンに落ち着き、そこに宮殿と礼拝堂が建てられた。
学ぶ者の中には王自身もいた。カールの伝記を書いた側近のアインハルトによれば、王はアルクィンから修辞学や天文学を学び、文字を書けるようになろうとして、枕の下に書板と帳面を入れておき、暇があると手の練習をした。だが始めたのが遅かったので、あまり上達しなかったという。王は読むことはできたが、書くことは最後までうまくならなかったと考えられている。

教えたのは、ローマ以来の七自由学芸だった。文法・修辞・弁証の三つと、算術・幾何・音楽・天文の四つである。アルクィンは師と弟子の問答の形で教科書を書いた。王の息子ピピンとの問答では、文字とは何かと問われて「歴史の番人」と答え、言葉とは何かと問われて「心を明かすもの」と答える、なぞなぞのようなやりとりが続く。
789年、カールは『一般訓令』を出し、すべての修道院と司教座に学校を置いて、子どもに詩篇や聖歌、教会の暦の計算、文法を教えるよう命じた。書物は正しく写し、写本を任せるなら少年ではなく大人に任せよ、とも書いている。アルクィンは聖書の写本を比べて誤りを正す仕事を進め、800年のカール大帝の戴冠の年、校訂した聖書を皇帝に献じたと伝えられる。

この時代の写本工房で、新しい字の形が広まった。カロリング小文字体である。それまでの字は地方ごとに癖が強く、つながって読みにくかった。新しい字は丸くて形がそろい、語と語の間をあけ、文の頭を大きな字で書いた。北フランスのコルビーなどの修道院で形が整えられたとされる。この字はたちまち帝国中に広まり、400年近く西ヨーロッパの標準になった。
そして長い眠りのあと、この字はもう一度よみがえる。15世紀のイタリアの人文主義者たちは、古い写本を探して修道院を回り、そこで見つけたカロリング時代の写本の字を、古代ローマの人々の字だと思い込んだ。彼らはこれを手本に字を書き、やがてその字がグーテンベルクの活版印刷から始まった活字の時代にローマン体の活字になった。いま私たちがアルファベットの小文字として読んでいる形は、この字の子孫である。

カールの時代の写本工房が残した最大の遺産は、古典そのものかもしれない。キケロやカエサル、ウェルギリウス、タキトゥス『年代記』をはじめとする古代ローマの書物の多くは、この時代とその直後に写された写本が、現存する最も古い写本になっている。この時代に写されなかったら、失われていた作品は少なくないと考えられている。
アルクィンは796年、トゥールのサン・マルタン修道院の院長になり、そこでも学校と写本工房を育てた。804年に死んだ。カールが死んだ814年の後、帝国はヴェルダン条約で三つに分かれるが、修道院の学校と写本の流れは途切れなかった。この一連の動きが「カロリング・ルネサンス」と呼ばれるようになったのは、19世紀になってからである。