ダビデのエルサレム
概要
羊飼いから王になった、と聖書は語る。エルサレムを取って都にした。考古学で確かめられるのは名前の刻まれた石碑一つで、王国の規模は議論がある。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
ダビデ?–BC970年頃 · 王本文
紀元前12世紀、東地中海の青銅器時代の世界が崩れた(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)。エジプトの力がカナンの地から退き、沿岸にはペリシテ人が町を築き、内陸の丘陵地帯には小さな村がたくさん生まれた。のちにイスラエルの民と呼ばれる人びとは、この丘の村々から出てくる。王はまだいない。部族ごとに長老が治め、危機のたびに指導者が立った。
聖書の『サムエル記』によれば、ペリシテ人の圧力に耐えかねた民は、王を求めた。預言者サムエルがベニヤミン族のサウルに油を注いで最初の王とする(サムエルとサウル)。そのサウルのもとに現れるのが、ベツレヘムの羊飼いの家の末の子、ダビデだった。竪琴の名手として王の心を慰め、石投げの一撃でペリシテの巨人ゴリアテを倒した、と物語は語る。

ダビデは戦士として名を上げ、民の人気が高まるほど、サウルに疎まれた。命を狙われて荒野へ逃れ、ならず者や負債を負った者を集めて一団を作り、ついには敵のペリシテ人の王に身を寄せる。サウルがペリシテ人との戦いで死ぬと、ダビデは南のヘブロンでユダ族の王となった。7年半後、北の諸部族も彼を王に迎える。
王になったダビデがまず取ったのが、エルサレムだった。丘の上の小さな町で、エブス人が住み、どの部族の土地にも属していなかった。南のユダと北の諸部族のあいだに位置する。ここを都にすれば、どちらの側の町でもない場所から全体を治められる。聖書は、守りを誇ったエブス人の町に、ダビデの兵が水を引く縦穴から入り込んだと書く。町は「ダビデの町」と呼ばれるようになった。
ダビデはそこへ、神と民の契約のしるしである契約の箱を運び込んだ。箱の前で、王が力の限り踊ったという場面がある。政治の都が、同時に信仰の中心になった。神殿を建てたいと願ったが、預言者に止められ、建てるのは子の代の仕事になる(ソロモンの神殿)。代わりに、ダビデの家系が永遠に王座に就くという約束が与えられたと物語は語る。

聖書のダビデは、英雄であると同時に、ひどく人間くさい。部下ウリヤの妻バト・シェバと通じ、それを隠すためにウリヤを最前線に送って死なせた。預言者ナタンに責められて悔いる。息子アブサロムには反乱を起こされ、都を追われ、戦いでその息子を失って泣いた。王の過ちをここまで書き込んだ年代記は、古代の王の記録としては珍しい。晩年、王位はソロモンに引き継がれた。
では、考古学はどこまで確かめられるのか。長いあいだ、聖書の外にダビデの名は見つからなかった。20世紀の終わりには、ダビデは後の時代に作られた伝説の王ではないか、と主張する研究者も現れていた。

1993年、イスラエル北部のテル・ダンで、玄武岩の石碑の破片が見つかった。翌年にも破片が出た。紀元前9世紀のアラム語の碑文で、ダマスクスの王と見られる人物が、イスラエルの王と「ダビデの家」の王を討ったと誇っている。ダビデの死から百数十年後、外国の敵がユダの王家を「ダビデの家」と呼んでいた。この王家の始祖となる人物が実在したことは、ここでほぼ確かになった。
王国の大きさは、いまも議論がある。聖書は、ダビデとソロモンがエジプトの境からユーフラテスまでを治めた大国を描く。一方、紀元前10世紀のエルサレムの地層からは、都にふさわしい大きな遺構がはっきりとは出ていない。この時代のエルサレムは丘の上の小さな首長の拠点で、大国の姿は後の時代の理想を投影したものだ、と考える研究者がいる。反対に、ダビデの町の斜面の巨大な石の構造物や、ユダの丘陵で見つかった同時代の城壁の町を、王国の存在の証拠とする研究者もいる。年代の決め方そのものが、数十年の幅で争われている。

確かなのは、ダビデという名が、その後のユダヤの歴史で特別な意味を持ち続けたことだ。王国が滅びたあとも、人びとはダビデの家から救い手が出ると待ち望んだ。新約聖書は、イエスを「ダビデの子」と呼ぶ。物語の大きさと、遺物の小ささは、まだ噛み合っていない。それでも、この丘の町を都に選んだ一人の王の決断が、3000年後のいまも、世界で最も争われる都市の始まりになっている。