ラリベラの岩窟教会

概要
岩山を上から掘り下げて造った11の教会。十字軍で聖地へ行けなくなった代わりの巡礼地とされる。
場所
12.03°N 39.04°E · エチオピア
関わった人(1)
ラリベラAD1162年頃–AD1221年頃 · 命じた王本文
エチオピアの高原は、アフリカで最も古いキリスト教の地の一つである。4世紀に紅海の交易で栄えたアクスム王国の王がキリスト教を受け入れて以来(アクスムのキリスト教化)、高原の人々は、エジプトのアレクサンドリアの教会と結びついた独自のキリスト教を守ってきた。7世紀以降、周りの土地がイスラームの勢力圏に入っても、エチオピアの高原はキリスト教の島として残った。
アクスムが衰えたあと、12世紀ごろの高原を治めたのは、ザグウェ朝と呼ばれる王家だった。アクスムの王家の血を引かない家で、高原の中央に近い山地のロハを都とした。この王家の王の一人が、ラリベラである。伝説によれば、王が生まれたとき蜂の群れがその体を取り巻き、母はそれを王になるしるしと見て「蜂は彼の主権を知っている」という意味の名をつけたという。王の生年や在位の年には諸説があるが、12世紀の末から13世紀の初めにかけて国を治めたと考えられている。

この王の名と結びつけられているのが、ロハの町に残る11の岩窟教会である。のちに町そのものが王の名をとってラリベラと呼ばれるようになった。
教会の造り方は、ふつうの建物とまったく逆である。石を積み上げるのではなく、赤みを帯びた火山性の柔らかい岩の地面を、上から四角く掘り下げていく。周りに深い溝を掘って、中に一つの巨大な岩の塊を残し、それを外側から削って屋根や壁、窓の形を作り、さらに内側をくりぬいて、柱や天井、アーチ、祭壇を削り出す。一つの教会全体が、一枚の岩からできている。削りすぎれば取り返しがつかない。最初から完成の形を頭に描いて掘り進めなければならない工事である。
11の教会は、地下の通路や溝でつながりながら、大きく二つの群と、離れて建つ一つに分かれる。最も大きいのは「世界の救い主の家」と呼ばれる教会で、岩から削り出された建物としては世界最大級とされる。最も有名なのは、群から離れて立つ聖ギョルギス教会である。地面から12メートルほど掘り下げた穴の底に、上から見ると正確な十字の形をした教会が立っている。地上から見下ろすと、屋根に刻まれた三重の十字が、穴の中に浮かんでいるように見える。
なぜ王はこのような教会を造らせたのか。よく語られるのは、エルサレムとの結びつきである。1187年、イスラームの英雄サラディンが十字軍からエルサレムを奪い返した(サラディンのエルサレム奪還)。エチオピアのキリスト教徒にとって、聖地への巡礼はいっそう難しくなった。そこで王は、自分の国の中に新しいエルサレムを造ろうとした、という説明である。実際、町を流れる川はヨルダン川と名づけられ、教会や場所にはゴルゴタやアダムの墓など、聖地の名がつけられている。ただし、この説明は後の伝承や聖人伝にもとづく部分が大きく、建設の動機をそれだけに求めることはできない。

教会がいつ、どのように造られたのかにも、分からないことが多い。伝承では、ラリベラ王の治世のうちにすべてが造られたとされ、昼は人が掘り、夜は天使が続きを掘ったので、驚くほど早く仕上がったと語られる。一方、考古学の調査からは、一部の建物はもともと要塞や宮殿として造られ、後に教会に改められたもので、全体はもっと長い時間をかけて、何段階にもわたって造られたとみる説が出ている。
1270年、ザグウェ朝はアクスムの王家の子孫を名乗るイェクノ・アムラクに倒された(エチオピア・ソロモン朝の成立)。新しい王家は都を別の場所に移したが、ラリベラの教会は聖地として大切にされ続けた。16世紀の初め、この地を訪れたポルトガルの司祭アルヴァレスは、教会の驚くべき造りを書き記したうえで、これ以上書いても誰も信じないだろうと思うので、ここでやめておく、という意味のことを書いている。

ラリベラの教会は遺跡ではない。今もエチオピア正教会の教会として使われ、白い布をまとった司祭や信者が祈りを捧げている。エチオピアの暦で降誕祭にあたる1月には、国中から何万人もの巡礼者が集まり、岩の溝の縁を埋め尽くす。1978年、ラリベラの岩窟教会群は、世界遺産が初めて登録された12件の一つに選ばれた。一方で、雨水による岩の傷みが深刻になり、教会の上には保護のための大きな屋根がかけられている。