できごと

ウィクリフの英語聖書

Wycliffe's Bible
AD1382年頃
年に諸説あり重要度 4
ウィクリフの英語聖書に関わる図版:Wycliffe John Gospel
Wycliffe John Gospel Wikimedia Commons Public domain

概要

オックスフォードの神学者が、ウルガタを英語に訳させた。教皇の権威を否定し、化体説を否定し、「貧しい司祭」を各地に送った。死後31年で異端とされ、骨が掘り出されて焼かれ、灰が川に流された。

場所

オックスフォード
51.75°N -1.26°E · イングランド

関わった人(1)

ジョン・ウィクリフAD1328年頃–AD1384年12月31日 · 神学者

本文

14世紀のイングランドで、聖書はラテン語で読むものだった。教会で使われる聖書は、4世紀末から5世紀初めにヒエロニムスが訳したラテン語の聖書(ヒエロニムスのウルガタ)で、それを読みこなせるのは聖職者と、ごく一部の学のある人に限られた。一般の信徒は、聖書の言葉を、司祭の説教や、教会の壁の絵や、祭りの劇を通して知っていた。部分的な英語の訳や、詩の形に直したものはあったが、聖書の全体を英語で読める本は無かった。

ジョン・ウィクリフは1320年代にイングランド北部のヨークシャーで生まれ、オックスフォード大学で学んで、当代一の神学者・哲学者と目されるようになった。ベイリオル学寮の学寮長も務めている。そのころのイングランドでは、教会は広い土地と富を持ち、ローマの教皇は税を取り立て、聖職の任命に口を出していた。さらに1378年からは、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が並び立って互いを破門し合う教会の大分裂が始まり、教会の権威は揺らいでいた。

リンディスファーン福音書(698年)の『主の祈り』に、10世紀の注釈者アルドレドが付けた逐語訳の古英語注
リンディスファーン福音書(698年)の『主の祈り』に、10世紀の注釈者アルドレドが付けた逐語訳の古英語注Wikimedia Commons No · Public domain

ウィクリフは、教会の本当の姿は神に選ばれた者たちの見えない共同体であって、目に見える教会の組織や教皇ではないと説いた。罪の中にある聖職者は財産を持つ資格がなく、俗人の君主がそれを取り上げてもよい、とも論じた。この考えは、教会の富に目をつけていた王の叔父ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを喜ばせ、公はウィクリフを保護した。1377年、ロンドン司教がウィクリフを呼び出して問いただしたときには、ゴーントが付き添って司教と言い争い、審問は騒ぎのうちに流れた。

1378年、ウィクリフは『聖書の真理について』を書き、聖書こそがあらゆる真理の源で、教皇や教会の言い伝えよりも上にある、と主張した。そうであれば、すべての信徒が自分で聖書を知るべきであり、それには母語で読むのがいちばん良い。さらにウィクリフは、ミサのパンとぶどう酒が姿を残したままキリストの体と血に変わるという、教会の化体説を否定した。これには保護者のゴーントも同調できず、大学の中でも支持を失っていった。

1381年、人頭税への怒りからワット・タイラーの乱が起こった。反乱を説いた司祭ジョン・ボールはウィクリフの教えを受けた者だと言われ、ウィクリフは反乱を非難したものの、疑いの目は彼に向けられた。翌1382年5月、カンタベリー大司教はロンドンで会議を開き、ウィクリフの説から24の命題を異端か誤りとして退けた。会議の最中に地震が起きたため、「地震会議」と呼ばれる。ウィクリフはオックスフォードを追われ、レスターシャーのラタワースの教区に退いた。

ワット・タイラーの乱に関わる図版:Jean Froissart, Chroniques, 154v, 12148 btv1b8438605hf336, crop
ワット・タイラーの乱Wikimedia Commons Jean Froissart · Public domain

英語の聖書が作られたのは、このころである。ウィクリフ自身がどこまで訳したのかは分かっていない。彼の周りの学者たちが、ウルガタから旧約・新約の全体を訳したもので、「ウィクリフ派の聖書」と呼ぶのが正確である。1380年代初めの初期の版は、ラテン語の語順をそのままなぞった硬い訳で、旧約の途中まではニコラス・ヘリフォードが訳したと考えられている。1390年代の後期の版では、英語として自然に読める文に改められ、ウィクリフの秘書だったジョン・パーヴィーの手によるとする説がある。印刷の無い時代に、すべて手で書き写された写本が、いまも250以上残っている。中世の英語の本で、これほど多く残るものはほかに無い。

ウィクリフは1384年12月28日、教会でミサを聞いている最中に脳卒中で倒れ、31日に死んだ。だが、彼の教えを受け継いで「貧しい司祭」として各地を巡り、英語で説教する人々が現れ、ロラードと呼ばれた。教会と王はこれを危険視し、1401年には異端を火あぶりにする法が作られた。1407年に大司教アランデルが定めた規則は、許可なく聖書を英語に訳すことも、ウィクリフの時代以降の英語の聖書を許可なく読むことも禁じた。英語の聖書を持っているだけで、異端の疑いをかけられる時代が始まった。

ウィクリフの著作は、イングランドとボヘミアの王家の結婚を通じてプラハに伝わり、ヤン・フスに大きな影響を与えた。1415年、フスを火刑にしたコンスタンツ公会議は、すでに30年前に死んでいたウィクリフも異端と宣告し、遺骨を教会の墓地から掘り出すよう命じた。1428年、リンカン司教がこれを実行し、骨は焼かれて、灰はラタワースを流れるスウィフト川に投げ込まれた。17世紀の歴史家トマス・フラーは、川が灰をエイヴォンへ、セヴァーンへ、そして海へと運んだように、ウィクリフの教えも世界中に広がった、と書いている。

コンスタンツ公会議に関わる図版:Vaclav Brozik - Hus
コンスタンツ公会議Wikimedia Commons Václav Brožík · Public domain

ウィクリフは、のちに「宗教改革の明けの明星」と呼ばれた。1520年代、ウィリアム・ティンダルはギリシア語とヘブライ語の原典から聖書を英語に訳して印刷し、そのために処刑されたが、その訳は1611年の欽定訳聖書の土台になった。聖書を母語で読むという、ウィクリフの周りの人々が手書きで始めたことは、グーテンベルクの活版印刷から始まる印刷の時代に、誰にも止められないものになっていった。

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