エフェソス公会議
概要
マリアを「神の母」と呼ぶかで争い、アレクサンドリアのキュリロスが、相手のネストリウスが着く前に会議を開いて断罪した。ネストリウス派は東へ逃げ、ペルシアを経て唐まで届く。景教。
場所
37.94°N 27.34°E · トルコ・イズミル県
関わった人(2)
アレクサンドリアのキュリロスAD376年頃–AD444年 · 断罪した側ネストリウスAD386年頃–AD451年頃 · 断罪された側本文
4世紀のニケーア公会議は、子なるキリストが父なる神と同じ神であると定めた。すると次に、キリストは神であると同時に人でもある、その神と人とがキリストの中でどう結びついているのか、という問いが残った。この問いをめぐって、帝国の東の二つの大きな教会、アンティオキアとアレクサンドリアの学者たちは、違う答えを出していた。アンティオキアの学者たちは、キリストの神としての性質と人としての性質を、はっきり分けて考えた。アレクサンドリアの学者たちは、何よりもキリストが一つであることを強調した。
428年、アンティオキアで学んだ修道士ネストリウス(ネストリウス)が、皇帝テオドシウス2世に招かれて、都コンスタンティノープルの総主教になった。説教の名手として知られた人である。都では、イエスの母マリアを、神を産んだ者という意味の「テオトコス」と呼ぶ人びとと、人を産んだ者と呼ぶべきだという人びとが言い争っていた。ネストリウスは、神は生まれも死にもしない、マリアが産んだのは人としてのイエスであり、神をはらんだ女と呼ぶのは誤りだとして、「キリストを産んだ者」と呼ぶのがふさわしいと説いた。民衆の間で広まっていたマリアへの敬愛からすると、それは聖母をおとしめる言葉にも聞こえた。

これに激しく反対したのが、アレクサンドリアの総主教キュリロス(アレクサンドリアのキュリロス)だった。キュリロスは、キリストは一つの人格であり、その方がマリアから生まれ、十字架で苦しんだのだから、神が生まれ、神が苦しんだと言ってよい、マリアは神の母だ、と主張した。そこには、教義の争いと同時に、新しい都コンスタンティノープルの総主教が力を増すことへの、古くからの大教会アレクサンドリアの対抗心も絡んでいた。キュリロスはローマの教皇ケレスティヌスに働きかけて味方につけ、430年、ローマの会議はネストリウスに考えを撤回するよう求めた。
争いを収めるため、皇帝は431年、小アジアのエフェソスに帝国じゅうの司教を集める会議を召集した。エフェソスは、マリアが晩年を過ごしたという言い伝えのある町でもある。ところが、ネストリウスの味方となるはずのアンティオキアの総主教ヨハネスと東方の司教たちの到着が遅れた。6月22日、キュリロスは、皇帝の代理の役人や一部の司教の抗議を押し切って会議を開き、出席を拒んだネストリウスを欠席のまま、その日のうちに断罪し、罷免を宣言した。町の人びとは、聖母の名誉が守られたと喜び、松明を掲げて司教たちを送ったと伝えられる。

数日後に着いたヨハネスたちは、自分たちだけで別の会議を開き、逆にキュリロスを罷免すると宣言した。エフェソスには二つの会議が並び立ち、互いを断罪し合うことになった。皇帝はいったん両方の決定を認め、ネストリウスとキュリロスの双方を拘束させる。しかし、キュリロスはアレクサンドリアの豊かな財力を使い、宮廷の有力者たちに多くの贈り物を届けて働きかけた。その贈り物の一覧を記した書簡が、いまも残っている。最後に皇帝はネストリウスを見捨て、ネストリウスはアンティオキアの近くの修道院に退いた。キュリロスは拘束を脱け出して、アレクサンドリアに戻った。433年、キュリロスとヨハネスは歩み寄り、双方が受け入れられる信仰の言葉を取り交わして和解する。
ネストリウスは、のちにエジプトの砂漠のオアシスへ流され、そこで450年ごろに死んだ。晩年に書いた弁明の書は、近代になってシリア語の訳で見つかり、ネストリウス本人の考えが、敵対者の言うほど二つのキリストを説くものではなかったと見る研究者もいる。

ネストリウスの考えを支持する人びとは、ローマ帝国の外へ逃れた。帝国と争っていたペルシアのササン朝は、彼らを受け入れ、ペルシアの教会は帝国の教会と別の道を歩むことになる。この東方の教会は、商人とともにシルクロードを東へ進み、中央アジアやインドに広がった。635年には唐の都長安に至り、景教と呼ばれた。781年に長安に建てられた「大秦景教流行中国碑」が、その足跡を伝えている。
エフェソスの勝者もまた、無傷ではいられなかった。20年後のカルケドン公会議で、キリストは一つの人格に二つの性質を持つと定められると、キュリロスの教えを、キリストには一つの性質しかないと受け継いだエジプトやシリアの人びとの多くはこれを拒み、帝国の教会から離れていく。いまのコプト正教会などの起こりである。マリアを神の母と呼ぶかという一つの言葉をめぐる争いは、キリスト教の世界をいくつもの教会に分けていく、長い分裂の始まりになった。