できごと

ミュンスターの再洗礼派

Münster rebellion
AD1534年
重要度 3
ミュンスターの再洗礼派に関わる図版:MuensterUnderSiege1534
MuensterUnderSiege1534 Wikimedia Commons Erhard Schön · Public domain

概要

再洗礼派が市を取り、財産を共有し、一夫多妻にし、仕立屋のヤンが「新しいエルサレム」の王になった。16か月の包囲のあと、王は鉄の檻に入れられて広場で殺され、檻は教会の塔に吊るされた。いまも吊るしてある。

場所

ミュンスター
51.96°N 7.63°E · ドイツ

本文

宗教改革は、一つの流れではなかった。マルティン・ルターが教会のあり方を問い(95か条の論題)、チューリヒではツヴィングリのチューリヒ改革が進んだが、その足元から、もっと徹底した改革を求める人々が現れた。聖書に幼児洗礼は書かれていない。信仰は自分で選ぶものであり、洗礼は信仰を告白した大人が受けるべきだ。こう考えて、大人どうしで洗礼を授け直した人々は、「再洗礼派」と呼ばれた。彼らは、生まれた者すべてを教会と国家の一員とする社会の仕組みそのものを否定する者として、カトリックからもルター派からも改革派からも迫害された。

再洗礼派の多くは、暴力を否定する静かな人々だった。だが迫害が強まる中で、この世の終わりが近いと説く者たちも現れた。その一人、毛皮職人出身の説教者メルヒオール・ホフマンは、1533年にキリストが再臨し、ストラスブールが新しいエルサレムになると予言した。ホフマンはそのストラスブールで捕らえられ、獄中で生涯を終えることになる。予言は外れた。だが、その弟子たちは別の場所に新しいエルサレムを探した。

ツヴィングリの肖像(ハンス・アスパー画)
ツヴィングリの肖像(ハンス・アスパー画)Wikimedia Commons Hans Asper · Public domain

ドイツ北西部のヴェストファーレンにある司教座都市ミュンスターでは、1532年、説教師ベルンハルト・ロートマンが市民の支持を得て、町をルター派の改革へ導いていた。ところがロートマンはしだいに考えを先鋭にし、1533年には幼児洗礼を否定する立場に移った。迫害を逃れた再洗礼派の人々が、オランダや周辺から続々とミュンスターに集まり始めた。その中に、ハールレムのパン屋ヤン・マティスと、ライデン出身の若い仕立て職人ヤン・ファン・ライデンがいた。マティスは、ミュンスターこそが神に選ばれた新しいエルサレムだと宣言した。

1534年2月、市の参事会の選挙で再洗礼派とその支持者が勝ち、富裕な織物商ベルント・クニッパードリングが市長になった。数日後、町に残りたい者は洗礼を受け直せ、受けない者は出ていけ、という命令が出された。冬の雪の中、財産を置いたまま、カトリックやルター派の市民が数千人、町を去った。入れ替わりに、各地から再洗礼派の人々が流れ込んだ。町の追放された領主である司教フランツ・フォン・ヴァルデックは、すぐに軍を集めて町を囲んだ。宗派の違いを超えて、カトリックとルター派の諸侯がこの包囲に手を貸した。

ミュンスターの反乱で、捕らえられた市民が再洗礼派の指導者の前に引き出される場面
ミュンスターの反乱で、捕らえられた市民が再洗礼派の指導者の前に引き出される場面Wikimedia Commons Warwick House · Public domain

包囲された町の中で、新しいエルサレムの建設が始まった。私有の財産は否定され、市民は金や銀を差し出すよう命じられた。食べ物も共有にされ、聖書以外の本は集められて広場で焼かれた。1534年の復活祭の日、マティスは神のお告げを受けたとして、わずかな手勢を連れて包囲軍に打って出た。自分が神の力で敵を打ち破ると信じていたらしい。彼はたちまち殺され、その首は槍に掲げられた。

指導者を継いだのは、まだ20代半ばのヤン・ファン・ライデンだった。夏には、旧約聖書の族長たちにならうとして一夫多妻が定められた。男たちの多くが町を去るか戦死していたため、町には男の数倍の女性がいた。反対した市民の一団は蜂起したが鎮圧され、数十人が処刑された。秋、ある予言者のお告げによって、ヤン・ファン・ライデンは新しいイスラエルの王、ダビデの王座を継ぐ者として即位した。金の王冠をかぶり、豪華な衣装をまとい、市場の広場に玉座を置いて裁きを下した。自分の妻は十数人にのぼり、マティスの未亡人ディヴァラが王妃とされた。妻の一人が町を出たいと口にしたため、王が自ら広場で首をはねた、という話も、町から逃れた者の証言をもとに伝えられている。

反乱指導者たちの処刑を描いた歴史画。背後に聖ランベルティ教会の鐘楼の鳥籠が見える
反乱指導者たちの処刑を描いた歴史画。背後に聖ランベルティ教会の鐘楼の鳥籠が見えるWikimedia Commons Georg Berger · Public domain

1535年に入ると、包囲は町を完全に閉じた。食糧が尽き、人々は馬や犬や猫、ねずみ、草や苔、靴の革まで食べたという。王は、神が石をパンに変えると説いたが、奇跡は起こらなかった。町を出ることが許された者もいたが、包囲軍は彼らを受け入れず、多くの者が城壁と包囲線の間で飢えて死んだ。

1535年6月24日の夜、町から逃れた者の手引きで、包囲軍は守りの手薄な場所から城壁の中へ攻め入った。抵抗はすぐに崩れ、町では虐殺が起きた。ロートマンは行方が分からなくなった。ヤン・ファン・ライデン、クニッパードリング、もう一人の指導者クレヒティングは捕らえられ、各地で見せ物として引き回された。

1536年1月22日、三人はミュンスターの市場の広場で処刑された。真っ赤に焼いた鉄のやっとこで体を引きちぎられ、最後に短剣で心臓を刺された。遺体は三つの鉄の檻に入れられ、町の中心の聖ランベルティ教会の塔に吊るされた。再洗礼派への見せしめである。遺体が朽ちたあとも、檻はそのまま残された。

檻は、いまも塔に吊るされている。19世紀の終わりに古い塔が取り壊されて建て直されたときも、第二次世界大戦の空襲のあとも、檻は元の場所に戻された。1980年代には芸術家の手で檻の中に小さな灯りがともされ、夜になると三つの光が町を見下ろしている。

ミュンスターの出来事は、その後長く、再洗礼派は危険で暴力的な狂信者だという印象をヨーロッパに刻みつけた。各地の再洗礼派への迫害は、いっそう厳しくなった。その中で、オランダの元カトリック司祭メノー・シモンズは、町の陥落の翌年に再洗礼派に加わり、暴力を完全に捨てた平和の信仰として運動を立て直した。彼の名から、その流れはメノナイトと呼ばれる。17世紀の末には、そこからさらにアーミッシュが分かれた。彼らの多くはのちにアメリカへ渡り、いまも兵役を拒み、質素な共同体の暮らしを守っている。武器を取らないことを信仰の核に置く彼らにとって、ミュンスターは、自分たちではないと言い続けなければならない影であり続けた。

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