エルサレム神殿の破壊

概要
ユダヤ戦争の末に神殿が焼かれた。ユダヤ教は神殿のない宗教へ形を変えていく。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
本文
紀元70年の夏、ローマ軍がエルサレムの神殿に火を放った。ユダヤ人が千年あまりにわたり、ただ一つの神に犠牲を捧げてきた場所である。神殿は二度と建てられなかった。その日を境に、ユダヤ教は神殿を中心とする宗教から、書物を読み解く宗教へと姿を変えていく。
エルサレムの神殿には長い前史がある。最初の神殿はソロモンの神殿として伝えられ、紀元前586年に新バビロニアに破壊された。捕囚から戻った人々が建て直したのが第二の神殿で、紀元前1世紀の終わりにはヘロデ大王が大規模に改築し、壮麗な建物に生まれ変わらせた(ヘロデの神殿)。神殿は祈りの場であると同時に、祭司が犠牲を捧げ、年に三度の祭りに各地から巡礼が押し寄せる、民族の心臓だった。

紀元前63年のポンペイウスのエルサレム占領以来、ユダヤはローマの支配下にあった。初めは従属する王を通じて、のちにはローマの総督が直接治めた。総督たちの多くは土地の宗教に無理解で、税の取り立ては重く、ローマに従う者と抵抗を説く者のあいだの溝は深まっていった。救い主の到来を待ち望む空気も強かった。
66年、総督フロルスが神殿の宝物庫から金を持ち出したことなどをきっかけに、エルサレムで暴動が起きた。神殿では皇帝のための犠牲が取りやめられ、これはローマへの公然たる反逆を意味した。シリアから鎮圧に来たローマ軍は撃退され、反乱はユダヤ全土に広がった。第一次ユダヤ戦争の始まりである。

皇帝ネロは老練な将軍ウェスパシアヌスを送った。ウェスパシアヌスは北のガリラヤから順に反乱を抑えていった。このとき、ガリラヤで反乱軍を率いていた若い祭司ヨセフスは、立てこもった町が落ちたあとに投降し、ローマ側に身を寄せた。のちに彼が書いた『ユダヤ戦記』が、この戦争について知られることのほとんどすべての出どころになっている。
68年にネロが自殺すると、ローマは内乱に陥り、翌年のうちに4人が相次いで皇帝を名乗った。最後に勝ち残ったのがウェスパシアヌスである。彼はローマへ向かい、エルサレムの攻略を息子のティトゥスに託した。
70年の春、ティトゥスはエルサレムを囲んだ。ちょうど過越の祭りの時期で、町は巡礼で膨れ上がっていた。城内では、反乱軍が複数の派閥に分かれて互いに殺し合っており、その争いのなかで長い籠城に備えた食料の蔵まで焼けてしまったとヨセフスは書く。ローマ軍は町の周りに壁を築いて完全に封鎖した。城内には飢えが広がり、ヨセフスはその惨状を、読むのがつらいほどの筆で描いている。
ローマ軍は城壁を一つずつ破り、夏には神殿の区域に迫った。神殿が燃えたのは、ユダヤ暦のアブの月の9日前後とされる。伝統では、最初の神殿が破壊されたのも同じ日とされ、ユダヤ教ではいまもこの日を断食の日として嘆く。ヨセフスは、ティトゥスは神殿を残そうとしたが、兵士が投げた火が燃え移った、と書いている。一方、後の時代のキリスト教徒の著述家が伝える別の記録では、ティトゥス自身が破壊を決めたことになっている。ヨセフスはティトゥスの庇護を受けて書いており、どちらが事実に近いかは説が分かれる。

9月までに町全体が落ちた。ヨセフスは、包囲のあいだに死んだ者を110万人、捕虜を9万7千人と記すが、死者の数は誇張だと考えられている。捕虜の多くは奴隷として売られ、あるいは各地の円形闘技場で見世物として殺された。反乱の残党は死海のほとりの岩山マサダに立てこもり、73年か74年まで抵抗を続けた(マサダの陥落)。
71年、ローマでウェスパシアヌスとティトゥスの凱旋式が行われ、神殿から運び出された七枝の燭台や供えのパンの机が市中を練り歩いた。のちに皇帝となったティトゥスの死後、その功績をたたえる凱旋門がローマの中心に建てられ、内側の浮き彫りに、燭台を担いで進む兵士たちの姿が刻まれた。戦利品の売却益は、ローマの新しい建物の費用にも充てられたと考えられている。帝国のユダヤ人は、それまで神殿に納めていた税を、今度はローマのユピテル神殿のために払わされることになった。

神殿を失って、ユダヤ教の形は大きく変わった。犠牲を捧げる場所がなくなり、神殿に仕えていた祭司の役割は終わった。神殿と結びついていた祭司貴族のサドカイ派は姿を消し、戦いを主導した熱心党も滅んだ。生き残ったのは、律法の学びと日々の戒めの実践を重んじてきたファリサイ派の流れである。
伝承によれば、包囲のさなか、律法学者ヨハナン・ベン・ザッカイは死んだふりをして棺に入り、弟子たちに担がれて城外へ出た。そしてローマの許しを得て、地中海に近いヤブネに学びの場を開いたという。話の細部は後の伝説だが、ヤブネが戦後のユダヤ教の再建の中心になったことは確かである。そこから、聖書を読み、解釈し、議論するラビたちの伝統が育った。祈りは犠牲の代わりになり、各地のシナゴーグ(会堂)が神殿の役割を分け持った。200年頃にはラビたちの口伝の教えがミシュナーとしてまとめられ、のちのタルムードへとつながっていく。

キリスト教にとっても、この出来事は分かれ目だった。エルサレムにいたイエスの弟子たちの共同体は散り、キリスト教の重心は、パウロの伝道旅行で種がまかれた地中海各地の異邦人の教会へ移った。福音書の多くはこの戦争の前後に書かれたとされ、神殿の崩壊を予言するイエスの言葉が記されている。
132年には、ユダヤで再び大きな反乱が起きた(バル・コクバの乱)。鎮圧したローマはエルサレムをローマ風の植民市に作り変え、ユダヤ人が町に入ることを禁じた。神殿の再建の望みはここで完全に断たれた。かつて神殿が建っていた丘には、7世紀に岩のドームが建てられ、いまも立っている。

神殿そのものは何も残っていない。いま「嘆きの壁」と呼ばれているのは、ヘロデが神殿の丘を広げるために築いた擁壁の西側の一部である。ユダヤ人はそこに祈りに通い続けた。1948年のイスラエルの建国の翌年、新しい国は国章として七枝の燭台を選んだ。その図柄は、ティトゥスの凱旋門の浮き彫りを手本にしたとされる。神殿を奪った側が勝利の記念に刻んだ姿が、奪われた側の国のしるしになっている。