アッシジのフランチェスコ
概要
布商人ピエトロの子。若い頃は宴と歌。捕虜と病気。サン・ダミアーノの十字架が「私の教会を直せ」。父の服を脱いだ。ハンセン病者に口づけした。鳥。狼。スルタンに会いに行った。「太陽の讃歌」。手足に傷が出た。44歳。2年後に聖人。
関わったできごと(2)
フランチェスコ会の認可AD1209年 · 創始フランシスコ会則の認可AD1223年11月29日 · 会則本文
1181年か82年、中部イタリアの町アッシジで、裕福な布商人ピエトロ・ディ・ベルナルドーネと妻ピカのあいだに生まれた。洗礼名はジョヴァンニだったが、商用でフランスにいた父が帰ってから「フランチェスコ(フランス人)」と呼ぶようになったと伝えられる。若いころの彼は金遣いが荒く、仲間を集めては宴を開き、フランス語の吟遊詩人の歌を歌って町を歩いた。騎士になって名を上げることを夢見ていた。

1202年、アッシジと隣町ペルージャの戦いがコッレストラーダで起き、彼は捕虜になった。1年ほど牢にいて、帰ってから長く病んだ。1205年、南イタリアの戦いに加わるため立派な武具を揃えて出発したが、スポレートで引き返した。夢か声に呼び止められたと、伝記は書く。それからの彼は、町外れの洞窟や荒れた礼拝堂で一人祈るようになった。
転機の場面はいくつも伝わっている。ある日、彼が避けてきたハンセン病の人に出会い、馬を下りてその手に口づけした。晩年の『遺言』に本人が書いている。罪の中にいたころ、病む人を見ることはひどく苦く思えたが、主が自分を彼らのあいだへ導き、苦いものが甘いものに変わった、と。崩れかけたサン・ダミアーノの礼拝堂で祈っていると、十字架のキリストが「私の家を建て直せ」と語りかけたという。彼はそれを文字どおりに受け取り、父の店の布を売って修理の金にした。

怒った父は息子を連れ戻し、司教グイドの前で財産の返還を迫った。1206年ごろのことである。フランチェスコは人々の前で着ている服を脱いで父に返し、これからは天にいる父だけを父と呼ぶと言った。司教が自分のマントで彼を包んだ。そこから彼は石を運び、サン・ダミアーノやポルツィウンコラの小さな礼拝堂を自分の手で直していった。
1208年、ミサで、弟子を遣わすときの福音書の言葉、金も袋も二枚の下着も持たずに行け、という一節を聞き、これが自分の生き方だと悟った。仲間が集まり始め、1209年ごろ、彼らはローマへ行って教皇インノケンティウス3世から口頭で生活の認可を受けた(フランチェスコ会の認可)。同じころのドミニコの修道会とならび、町に住み、所有せず、物乞いと働きで暮らして説教する「托鉢修道会」の始まりである。1212年には、アッシジの貴族の娘クララが家を出て加わり、女子の修道会が生まれた。

1219年、彼は第五回十字軍の陣営があるエジプトのダミエッタへ渡り、戦線を越えてアイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルに会いに行った。改宗させることはできなかったが、スルタンは彼を丁重に扱い、無事に帰したと伝わる。翌年帰国すると、会は数千人に膨れ、学問をし、家を建て、規則を整えるべきだという声が強まっていた。彼は1220年に会の指導を退いた。1223年、教皇ホノリウス3世が会則を正式に認めた(フランシスコ会則の認可)。同じ年の降誕祭、グレッチョの洞窟に飼い葉桶と牛とろばを置き、キリストの誕生を目に見える形で祝った。降誕の飾りの起こりとされる。
1224年9月、ラ・ヴェルナの山で祈っていたとき、六つの翼を持つ天使セラフィムの幻を見て、手と足と脇腹にキリストの十字架の傷と同じ傷が現れたという。聖痕と呼ばれ、記録に残る最初の例とされる。このころには目の病がひどくなっていた。エジプトでうつったトラコーマとも言われる。翌年、サン・ダミアーノのクララたちのそばで休みながら、「太陽の讃歌」を作った。兄弟なる太陽、姉妹なる月と星、兄弟なる風、姉妹なる水、兄弟なる火、母なる大地と、造られたものすべてを兄弟姉妹と呼んで神をたたえる歌で、ラテン語ではなく土地の言葉で書かれた、イタリア語の詩の最も古いものの一つである。

医者は目を治すため、こめかみを焼いた鉄で焼いた。そのとき彼は火に向かって、兄弟なる火よ、私に優しくしてくれと頼んだと伝えられる。最期が近いと知ると、ポルツィウンコラへ運ばせ、讃歌に「姉妹なる死」の一節を書き足した。1226年10月3日の夕方、裸で地面に横たえられて死んだ。44歳か45歳だった。2年後の1228年、教皇グレゴリウス9世が彼を聖人とした。
彼について書かれた伝記は数多く、互いに食い違う。会は13世紀の後半に、ボナヴェントゥラの書いた伝記を正式なものと定め、それ以前の伝記を処分するよう命じた。鳥に説教した話はトマス・ダ・チェラーノの初期の伝記にあるが、グッビオの人を襲う狼を「兄弟なる狼」と呼んでなだめた話は、14世紀の『小さき花』で広まった伝説である。遺体は1230年、彼のために建てられた大聖堂の地下に、盗まれないよう秘かに納められ、1818年まで所在が分からなかった。大聖堂の上の堂には、彼の生涯を28の場面で描いた壁画がある。ジョットの作と伝えられてきたが、作者については議論がある。

清貧をどこまで守るかをめぐって、彼の死後、会は長く分裂を繰り返した。それでも、所有しないこと、弱い者のそばにいること、造られたものを兄弟と呼ぶことは、彼の名とともに残った。1939年にイタリアの守護聖人、1979年には環境を大切にする人々の守護聖人とされた。2013年、アルゼンチン出身の新教皇は、貧しい人々を忘れないために彼の名を選び(教皇フランシスコの選出)、2年後に出した環境についての回勅には「太陽の讃歌」の一句から『ラウダート・シ(たたえられますように)』と名づけた。