ザビエルの来日
概要
マラッカで会った薩摩の男ヤジロウの案内で、イエズス会のバスク人が鹿児島に着いた。2年3か月。鹿児島、平戸、山口、京都、豊後。「日本人はこれまで会った民の中で最も優れている」。京都は荒れて天皇にも将軍にも会えず、山口の大内義隆に望遠鏡と時計を贈って布教を許された。中国へ渡ろうとして、広州沖の島で死んだ。
場所
31.60°N 130.56°E · 日本・鹿児島県(薩摩藩の城下町)
関わった人(1)
フランシスコ・ザビエルAD1506年4月7日–AD1552年12月3日 · 来た本文
1547年12月、マレー半島の港町マラッカの教会で、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、一人の日本人に出会った。薩摩の生まれで、名をヤジロウ、あるいはアンジロウという。国で人を殺して追われ、ポルトガル船に逃れてマラッカまで来たのだった。罪の意識に苦しんでいた彼は、ザビエルのことを伝え聞いて会いに来た。
ザビエルは1506年、スペインとフランスの境にあるナバラ王国のバスク人の貴族の家に生まれた。パリの大学で学ぶうちに、同じバスク人のイグナティウス・デ・ロヨラと出会い、ともにイエズス会の創立の最初の仲間となった。1541年、ポルトガル王の求めに応じて東方への宣教に旅立ち、インドのゴアを拠点に、インド南部やマラッカ、モルッカ諸島をめぐって布教していた。

ヤジロウはポルトガル語をよく話し、聡明だった。ザビエルが、日本人はキリスト教を受け入れるだろうかと尋ねると、ヤジロウは、日本人はすぐには信じない、まず多くの質問をし、その答えと行いが道理にかなっているかを見て、納得すれば信じるだろう、と答えたという。ザビエルは日本へ行くことを決めた。ヤジロウはゴアの聖パウロ学院で教理を学び、1548年に洗礼を受けて、パウロ・デ・サンタ・フェの名を授かった。
1549年4月、ザビエルは、同じイエズス会のトーレス神父とフェルナンデス修道士、それにヤジロウら三人の日本人とともにゴアを発った。マラッカからは、中国人の船長の船に乗った。船長は海賊とあだ名される男で、航海の途中でしばしば占いを立てては行き先を変え、ザビエルを悩ませた。それでも船は、8月15日、聖母マリアの被昇天の祝日に、ヤジロウの故郷の鹿児島に着いた。

鹿児島では、領主の島津貴久がザビエルに会い、布教を許した。ポルトガルとの貿易に期待したからだと考えられている。ザビエルはヤジロウの助けを借りて、教えを日本語に訳し、町で説いた。このとき、キリスト教の神を表す言葉として、ヤジロウの助言で仏教の「大日」が使われた。人々は、新しい仏教の一派が来たと受け取った。誤解に気づいたザビエルは、のちにラテン語の「デウス」をそのまま使うことにした。鹿児島ではおよそ1年で100人ほどが洗礼を受けたが、仏僧たちの反発が強まり、貴久は布教を禁じた。
ザビエルが日本でぜひ果たしたいと考えていたのは、日本の「王」に会い、国全体での布教の許しを得ることだった。1550年、彼は鹿児島を離れ、ポルトガル船の来る平戸を経て、周防の山口へ向かった。山口の大内義隆は、西国で最も力のある大名の一人で、明との貿易で栄えていた。だが、粗末な身なりで現れ、仏教や当時の性の風習を厳しく批判したザビエルは、義隆の不興を買った。

1551年の1月、ザビエルは真冬の道を歩いて京都に着いた。しかし、応仁の乱からおよそ80年、都は戦乱で荒れ果てていた。天皇に会うには贈り物が要ると言われたが、その用意は無く、将軍も都にいなかった。日本には国全体を治める「王」が、実際にはいないことを、ザビエルは思い知らされた。彼は10日あまりで京都を去った。
ザビエルは方針を変えた。山口に戻ると、今度は立派な衣服をまとい、インド総督とゴアの司教の親書を携え、時計や眼鏡、鏡、鉄砲、楽器、ぶどう酒など、珍しい品々を贈り物として義隆に献じた。義隆は喜んで布教を許し、住まいとして空いていた寺を与えた。この寺は大道寺と呼ばれた。数か月のうちに、500人ほどが洗礼を受けたと伝えられる。宣教の相手の心を開くには、相手の文化の作法に従うことが必要だという経験は、のちのイエズス会の宣教のやり方に受け継がれた。

1551年の秋、ザビエルは豊後の府内に招かれ、若い大名の大友義鎮、のちの宗麟に会った。そして11月、インドへ戻る船で日本を離れた。日本にいたのは2年3か月ほどだった。トーレス神父が日本に残り、宣教を続けた。ザビエルとともに日本を出た鹿児島出身の青年ベルナルドは、のちにヨーロッパへ渡り、ローマを訪れた最初の日本人の一人となった。
ザビエルは日本人を高く評価していた。鹿児島からゴアの仲間に送った手紙に、日本人はこれまでに出会った民の中で最もすぐれている、異教徒の中で日本人より優れた民は見つからないだろう、と書いている。名誉を重んじ、貧しさを恥としない人々だ、とも。一方で、日本の人々が、中国の賢人たちが知らない教えなら正しいはずがない、と問い返すことに気づき、日本に教えを広めるには、まず中国に伝えなければならないと考えるようになった。
1552年、ザビエルは中国への入国を目指し、広州の沖合にある上川島に渡った。外国人の立ち入りが禁じられていた中国本土へ、密かに運んでくれる船を待つうちに熱病にかかり、12月3日、島の粗末な小屋で死んだ。46歳だった。遺体はのちにマラッカを経てゴアへ運ばれ、いまもボン・ジェズス教会に安置されている。
ザビエルが種をまいた日本の宣教は、その後、大きく広がった。1580年代には信者の数は10万人を超え、多くの九州の大名が洗礼を受けた。天正遣欧少年使節の少年たちはローマ教皇に謁見した。しかし豊臣秀吉の伴天連追放令を経て、江戸幕府はキリシタン禁教令で宣教を禁じ、1637年の島原の乱ののち、信仰は表から消えていく。鹿児島の港に着いたあの夏から、わずか90年ほどのことだった。