人物

ステファノ

Stephen
? – AD34年頃
ユダヤ重要度 4

概要

ギリシア語を話すユダヤ人。「聖霊に満ちた人」。7人の執事の一人。説教。「あなたたちは頑固で、心に割礼がなく、聖霊に逆らう」。「天が開いて、人の子が神の右に」。石。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。最初の殉教者。12月26日。

関わったできごと(1)

ステファノの殉教AD34年頃 · 殉教

本文

ステファノについて知られていることは、ほとんどすべて新約聖書の『使徒言行録』(使徒行伝)6章から8章にある。生まれた年も、どこで育ったかも分からない。名はギリシア語のステファノスで、「冠」を意味する。エルサレムにいた、ギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスト)の一人だった。地中海各地のユダヤ人の共同体から、聖地に移り住んだ人々である。

カルロ・クリヴェッリ画『聖ステファノ』
カルロ・クリヴェッリ画『聖ステファノ』Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

イエスが十字架にかけられたあと(イエスの処刑)、エルサレムには、イエスを救い主と信じる人々の集まりができていた。最初の信徒はユダヤ人で、ユダヤ教の一派のようなものだった。その中には、アラム語を話す地元のユダヤ人と、ギリシア語を話すユダヤ人がいた。使徒言行録によると、ギリシア語を話す人々の側から、自分たちの寡婦が毎日の食事の配給で後回しにされている、という苦情が出た。

12人の使徒は、自分たちが神の言葉を語ることをおろそかにして食卓の世話をするのはよくないと言い、信徒の中から評判のよい7人を選ばせた。ステファノはその筆頭に名が挙がる。ほかの6人もみなギリシア語の名を持っていた。使徒たちは祈って彼らの上に手を置いた。教会に生まれた最初の役職で、のちの執事(助祭)の始まりとされる。ステファノは「信仰と聖霊に満ちた人」と書かれている。

聖ステファノの殉教。ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の祭壇画(ティントレット父子画)
聖ステファノの殉教。ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の祭壇画(ティントレット父子画)Wikimedia Commons Jacopo & Domenico Tintoretto · Public domain

だが、ステファノは食卓の世話にとどまらなかった。人々の間で不思議な業を行い、イエスについて語った。エルサレムには、各地から来たユダヤ人がそれぞれに集う会堂があった。解放奴隷の会堂、北アフリカのキレネやアレクサンドリアの人々、小アジアのキリキアやアジア州の人々が、ステファノと論争したが、言い負かすことができなかったという。キリキアは、のちのパウロの故郷タルソスのある地方である。

論争に負けた人々は、偽りの証人を立てて、ステファノを最高法院(サンヘドリン)に訴えた。この男は神殿と律法に逆らうことを言っている、ナザレのイエスがこの神殿を壊し、モーセの定めた慣習を変えると言うのを聞いた、と。最高法院に引き出されたステファノの顔は、天使の顔のように見えた、と使徒言行録は書く。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ルチーニ画『聖ステファノの殉教』
ジョヴァンニ・バッティスタ・ルチーニ画『聖ステファノの殉教』Wikimedia Commons Giovanni Battista Lucini · Public domain

大祭司に問われたステファノは、長い演説をした。新約聖書の中で最も長い演説である。アブラハムから始めて、ヨセフ、モーセ、荒れ野の幕屋、ソロモンの神殿まで、イスラエルの歴史をたどり直した。要点は二つあった。一つは、イスラエルの民は神が遣わした者をいつも拒んできた、ということ。もう一つは、いと高き方は人の手で造ったものには住まない、ということである。神殿を守る者たちの前で、神殿は神の住まいではないと言ったことになる。演説の結びで、ステファノは聞き手に向かって、かたくなで心と耳に割礼を受けていない人たちよ、あなたがたはいつも聖霊に逆らっている、と言い放った。

人々は激しく怒った。ステファノは天を見つめ、天が開いて、人の子が神の右に立っているのが見える、と言った。人々は耳をふさいで叫び、彼を町の外へ引きずり出し、石を投げつけた。石打ちは律法が冒涜した者に定めた刑である。証人たちは、投げる前に脱いだ上着を、サウロという若者の足もとに置いた。ステファノは、主イエスよ、私の霊をお受けください、と祈り、ひざまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでください、と大声で叫んで息絶えた。十字架の上のイエスの言葉と重なるように書かれている。

ルイス・デ・モラレス画『聖ステファノ』
ルイス・デ・モラレス画『聖ステファノ』Wikimedia Commons Workshop of Luis de Morales · Public domain

この死が法に基づく処刑だったのかどうかは、はっきりしない。ローマの支配のもとで、最高法院には死刑を執行する権限が無かったとされる。イエスの場合も、ローマの総督ピラトの手で十字架にかけられた。ステファノの死は、裁判の途中で群衆が暴走した私刑だったとも、総督が不在になった隙に起きたとも考えられている。年代も、イエスの死から数年後の30年代半ばとされるが、確かではない。使徒言行録が書かれたのは事件から半世紀ほど後で、演説も著者のルカがまとめたものと考える研究者が多い。

サウロはステファノを殺すことに賛成していた。その日から、エルサレムの信徒たちへの激しい迫害が始まり、使徒たちのほかはユダヤやサマリアの地方に散らされた。だが、散らされた人々は行く先々でイエスのことを語った。ギリシア語を話す信徒たちはシリアのアンティオキアまで行き、ユダヤ人ではない人々にも教えを伝えた。迫害の先頭に立ったサウロ自身も、やがてダマスコへ向かう途中で回心し、使徒パウロとして地中海世界を巡ることになる(パウロの伝道旅行)。のちにパウロは、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、私もそばにいて、殺す者たちの上着の番をしていた、と語っている。

ロドルフォ・ベルナルデッリ作『殉教者聖ステファノ』、1879年
ロドルフォ・ベルナルデッリ作『殉教者聖ステファノ』、1879年Wikimedia Commons Rodolfo Bernardelli · CC0

ステファノは、キリスト教で最初の殉教者として敬われるようになった。415年、エルサレムの近くで遺骨が見つかったとされ、各地に分けられて、多くの教会が彼に献げられた。ウィーンのシュテファン大聖堂もその一つである。西方の教会では、クリスマスの翌日の12月26日がステファノの祝日になっている。神殿を離れても神はいる、というステファノの言葉は、ユダヤ教の一派だった集まりが、地中海世界の宗教へ広がっていく出発点として読まれてきた(物語「キリスト教のひろがり」)。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD34年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →